阿毘達磨倶舎論第二十三巻原文:此の中において、下下品の道の勢力は上上品の障を断ずることができ、かくの如く乃至上上品の道の勢力は下下品の障を断ずることを知るべし。上上品等の能治の徳は初め未だ有らず。此の徳有る時に、上上品等の失は已に無し。衣を浣ぐ位に粗き垢を先ず除くが如く、後後時に漸く細き垢を除くが如し。また粗き闇は小さき明け能く滅す。要ず大いなる明けを以て細き闇を滅すべし。
釈:修行者は知るべきである。下下品の道の勢力は上上品の煩悩障を断除し、上上品の道の勢力もまた下下品の煩悩障を断ずる。上上品が対治する徳は、修業を始めた当初は未だ現れず、一旦現れた時には上上品の過失は既に消滅し、上上品の思惑は断たれる。例えて言えば衣類を洗う時、粗い汚れが先に除かれ、その後徐々に細かい汚れを除くが如し。また重い闇は小さな灯りで滅し、深細な闇は大いなる光明をもって初めて滅する。細やかな闇が滅して初めて完全な明るさが現れる。
原文:失と徳の相対する理もまた然るべし。白法の力は強く黒法の力は劣るが故に、刹那の間に劣れる道が現行する時、無始時来より展転して増益した上品の諸惑を頓断することができる。久しく経たる時に集まった衆病の如く、少量の良薬を服すれば頓愈せしむるが如し。また長時に集まった大いなる闇は、一刹那の小灯にて滅するが如し。
釈:過失と功徳が相対する道理も同様である。善法の力が強く悪法の力が劣るため、刹那の間に最低の道が現前する時、衆生が無始以来積み重ねてきた上品の貪瞋痴煩悩を瞬時に断除できる。長年にわたって蓄積した病が少量の良薬で瞬時に治癒する如く、あるいは永劫にわたって凝集した大いなる闇が一瞬の灯火で消える如くである。
煩悩過失を対治する道こそが徳、すなわち修業によって発する功徳である。修業の功徳は戒・定・慧の三つを欠かせない。戒も定と同様に下中上品に分けられ、慧もまた下中上品に分けられる。戒を心に持てば効果的な制約を得て心が散乱せず、これに定の修行が加われば禅定が現前する。禅定があれば四聖諦の理及び大乗の理が心に融通し、智慧が生起する。戒律を厳守すればするほど禅定は深まり、禅定が深まれば法義が心に浸透し、理が融通すれば煩悩は薄れ、徳は増大する。故に戒は徳、定は徳、慧は徳である。この徳は功徳であると同時に福徳でもあり、これにより来世善道に生を受ける。徳はまた根器、即ち道を載せる根本の器である。徳あれば道あり、道あれば解脱あり。
道と徳が合わさって即ち道徳となる。徳高く名望重き道徳高尚なる者には、敢えて宣伝せずともその徳が自然と感応を呼ぶ。譬えば花香が蝶を誘うが如し。道徳を備えた者を下品の者が動かそうとすれば、直ちに損を被る。因果が許さず、徳もまた許さない。大いに動かせば大損を蒙り、小さく動かせば小損を被る。現世の花報、来世の果報、避けること能わず。道徳の威厳は恰も国王の尊位の如く、これを辱めれば牢獄か斬首、或いは九族皆伐に至る。その勢力の盛んなるが故なり。
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