いかにして戒現観と名づくべきか。すなわち聖の愛する戒なり。悪趣の業に対し、すでに決定を得て作らざる律儀なるが故なり。
第二解釈 瑜伽七十一巻三頁に云わく、問う:戒現観にはいかなる相あるや。答える:もし戒現観を成就する者あらんには、ついに重ねて能くすらく、すらに故心をもって傍生の命を断ち、与えずして取り、欲の邪行を習い、知りて妄語し、米等の酒諸の放逸の処を飲むことなし。問う:戒現観はいかなる自性なるや。答える:聖の愛する身語業を以て自性と為す。あるいはこれと俱に行う菩提分法を以て自性と為す。問う:戒現観は何の業を為すと当に言うべきや。答える:戒現観は悪趣の衆苦より解脱するを業と為す。また云わく:戒現観も亦無量種なり。十種の不善性罪業道を随遠離する差別に多種あるに随う。また相続に随っても亦多種あり。すなわち預流の身より乃至阿羅漢の身、独覚、菩薩、如来の身等、無量の差別なり。
第三解釈 顕揚十七巻三頁に云わく、問う:戒現観は何を以て体と為すや。答える:聖の愛する身語等の業を以て体と為す。あるいは彼と俱に行う菩提分法を以て体と為す。問う:戒現観にはいかなる相貌あるや。答える:もし戒現観を成就する者あらんには、乃至畜生に至るまで、ついに故にその命を害せず、及び与えずして取り、邪佚の行いを行い、知りて妄語し、窣羅迷隷耶末陀の放逸処の酒を飲むことなし。
第四解釈 成唯識論九巻十一頁に云わく、三、戒現観。すなわち無漏の戒なり。破戒の垢を除き、観をして増明せしむ。亦た現観と名づく。
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