仮法は如何にして幻化し、如何にして虚妄であるのか。
修行とはこれらの仮相が如何に現れ、如何に虚妄であるかを認識し探究することである。夢の中で塗香するという事象が存在するか否か、このような幻化の仮相が否定できない事実としてある。仮相は極めて実在性を欠くが、この非実在法が如何に現れ、如何に幻化されたのか。これを探究し得てこそ大智慧が生じる。夢から覚めた後、五陰のなす一切の事も同様に虚妄であり幻化であって、夢見と異ならない。では五陰及び五陰の活動は如何にして幻化されたのか。このような不断の観行探究こそが真実の修行であり、我々自らが禅定を修め、深く参禅してこれらの深奥の理を証得する必要がある。
阿頼耶識如来蔵を除く一切の法は幻化されたものであり、全て仮である。但し仮法には仮法の作用があり、仮法が作用する時もまた仮である。我々の五陰自体も仮であるが、五陰身の作用はなお必要とされる。四果以前の衆生は五陰の仮相を滅除する能力を有さない故、仮法仮相を更に清浄で自在なものとし、一切の苦受を断除すべきである。衆生が仏となっても五蘊色身という仮法を滅除せず、ただ五蘊を極めて殊勝で清浄ならしめ、一点の染汚と無明もなく、三十二相八十種随形好を具えるに至るのである。
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