衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年02月24日    水曜日     第4 回の開示 合計3130回の開示

意根の思量と意識の思惟における違い

問:どうやら意根の思量の使い方が分かってきたようなのですが、それは思考では捉えられない心の働きで、意識が参加するとその状態が深細さを失ってしまうようです。これは正しいのでしょうか。この状態は持続時間が短く、問題の行き詰まりを思量する際に意識を使うと、すぐに深細さが薄れます。

また座禅中に身体の状態を観察していると、この色身が存在しない感覚が生じ、微かな覚受と意識で構成された実体のない身体のように感じられます。突然、普段見ている事物は単なる画像や映像のように現れているという感覚が起こり、定から出て周囲を見回すと依然として現実感があります。

答:現在あなたは座禅中に意識が思考しているか、意根が思量しているかを大体区別できる段階にあり、方法論も正しく用いられています。ただ修行が未熟で自在さに欠けるため、徐々に深めていく必要があります。静中の仏法思索はまさに意根を用いるべき時で、心の働きは極めて深細です。意識を用いると表面的になり、隔たりを感じて核心に届きません。

座禅中に色身を観察する際に集中が深まると、定力が向上します。定力が深まるにつれ、かえって覚観が微細化し色身の知覚が消失して心が空じます。

定力は心の働きを緻密にし、平常では観察できない事象の真相を把握させ、真理を悟らせます。定中で事物を映像のように感じるのは優れた認知であり、この状態を維持深化させれば、あらゆる事理の虚妄性を見透かせるでしょう。因縁が具足する時節に至れば、空を証得する可能性が開けます。一切法の悟達は深甚な禅定の中で成就されるもので、日常動作の中の定力も座禅の功夫に起因し、静中の定の延長線上にあるのです。

——生如法師の開示
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