問:須陀洹果が五蘊身を我・我所とする知見を断つとは、意根を我とする知見を断つことなのでしょうか。
答:初果が我見を断つとは、意根と意識の両方が断たれた状態を指します。両者共に五蘊の苦・空・無常・無我を認めたのです。ただし初果の我見断絶は未だ徹底しておらず、二果において更に深く我見を断つことで貪瞋痴の煩悩が薄れ、三果では更に深化して貪瞋痴を断ち切り、四果に至って初めて我見を完全に断絶します。それ故に我慢・我執が尽き、世間法に微塵も染まらず、有余涅槃を取る能力を得るのです。
初果には未だ貪瞋痴が残っておりますが、凡夫のような顕著な現れ方はしません。初果の我見断絶の功徳により、煩悩が有効に調伏されるためです。初果は三十七道品を修め、八正道を具足する過程で、心が正直善良となり修行の正道を歩みます。四正勤を成就した初果の者は煩悩悪習が調伏され、善法が確立されました。これは凡夫と同列に論じるべきものではなく、初果者を誹謗する言説は真実に反します。
凡夫と同等の煩悩を有する者を初果と称するなら、それは偽りの初果者です。世には詐偽が蔓延し、仏教界にも無自覚な我執から過大評価する者が少なくありません。このような大妄語の業因は命終後、地獄に堕する結果を招きます。
何故大妄語の罪が甚大か。楞厳経に説かれる如く、貧者が帝王を詐称すれば誅滅に処されるが、仏法において凡夫が聖者を詐称する罪は更に重く、仏教の修証体系を混乱させ衆生を惑わす故です。聖者詐称は波羅夷罪、断頭罪に相当し、地獄での刑罰を免れません。
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