禅定において諸根が幻の如く、境界が夢の如きを観行する
諸根は幻の如く、境界は夢の如し。これらの法を観行するには深い禅定が必要であり、六根が六塵に対する様々な境界において、根と塵の虚妄性・不実性・無主宰性・無自性を体得せねばならない。定慧は相即し、完全に融合していなければならない。仔細に観行し、眼が色を見る時、眼根が如何に自在ならざるか、色塵が如何に虚妄か、影の如きものであるかを観じ、耳が声を聞く時、音声という境界が如何に夢の如く、耳根が如何に幻化の如く、生滅し、聴覚作用を起こすかを観ずる。観行が成就すれば、五陰の空幻を証得し、寂静不生を得る。
これらの法の観行における初步の理解は、証得に等しからず。理解は比較的容易で、意識心が一時的に思惟すれば理解したと感じるが、これは証得ではない。証得には禅定が必要であり、甚深の思惟を要し、確固たる証拠を求め、心の深層にある意根に至らねばならない。意根が認可して初めて証果という。第六意識の理解は全て知識に属し、証拠なきか不足するものは証得にあらず。深細な観行を経て、意根が心の奥底で真にその理を認可してこそ証果と為す。
その時、真に五陰無我を証得し認可するが故に、六根の虚妄を知り、心行が変化し、万法に対する見方が転換する。真に自己が虚妄であると認める時、心に変化が生ぜざるを得ず、従前と同じ様相を保つことは不可能である。意識の理解に留まり証得せざる時は、内心に五陰が確かに無我なるを知らず、自我の認知は変わらず、五陰に対する見方は理論に留まり、心行は依然として旧態のままであり、煩悩も元の如く重く、三縛結を断ぜざれば三悪道を免れ得ない。
これは世俗法で説く「目撃は実なり、伝聞は虚なり」の理と同じである。他人の話を聞くことは意識の理解に相当し、未だ実証せず、自心に虚しさを抱き、真剣に検証する勇気なし。その後、自ら目撃して初めて真に知り得て「ああ、然り!」と悟る。この時、人や事柄に対する処し方を知る。目撃は意根の証得に相当し、伝聞は意識の理解に相当する。これらは全く異なる次元のものである。意識の理解は他者から聞いた知識であり、意根の証得は自らの現量知、真実の眼見である。
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