問:座禅に入って間もなく、まず身体が次第に安定し、呼吸が非常に微弱になり、同時に絶え間なく生じる想念に気付くようになります。しかし意識はその想念に追随せず、時に夢を見ているような感覚になり、各想念はぼんやりとした影像を伴い、実際には影のようなものが想念の生滅と共に一瞬過ぎ去り、覚醒したまま眠っているような状態です。この状態は入定と言えるでしょうか?一点に集中して想念を減らす必要はありますか?
答:この状態は定にあると言えます。心が安定して初めて自身の想念に気付き、定力によって想念に追随しないことが可能になります。定力の支えがあってこそ、夢のように実体のない想念を細やかに観察でき、影のように虚ろなものと感じられるのです。この状態が持続すると、想念は次第に減少します。想念を制御できるか否かに拘わらず、禅定が深まるにつれ想念は減衰し、やがて消失します。禅定が比較的安定した状態では、法義を深く細やかに思惟し、学んだ仏法の理路を整理整頓した上で、重点的に集中突破することが可能です。
禅定中に想念を発見するのは誰か?誰が誰の想念を発見するのか?この発見は意識の作用であり、意根から生起する想念が次々と現れるのを、曖昧から明晰へと観察する過程です。これは禅定が意識に従来気付かなかった想念を発見させ、観察を次第に明晰化する作用であり、定力の効果です。意識が意根の想念に追随する場合、意識がこの点に気付くことを「意識の反照」と言い、これは証自証分の作用です。意根の想念を発見するのは自証分の働きです。
意識が想念に追随しなくなるのは、意識と意根が分離可能で相互に牽制・影響し合うことを示します。修養が深まると、心はより微細で智慧ある状態になり、どの識心が煩悩に汚染されているか、どの識心が比較的清浄か、あるいは全てが汚染されているか、あるいは清浄化しているかを判別できます。さらに、誰が誰を牽制し、影響し、染めるかを見極められます。本来意根の汚染が強く意識を引き回していましたが、禅定の定力が強化され意識が覚醒すれば意根に追随しなくなります。その後さらに修定を続ければ、意根の想念は次第に減少し、心は清浄化し、汚染は軽減されます。この段階では問題思考が深微に入り、理路整然とし、智慧が向上します。
意根の攀縁は意識を引き連れ、意識の想念を絶え間なく活動させます。意根の攀縁が現れると想念が止まず、心は乱れます。意根の攀縁を認める人は多くても、意根に想念があると言えば反対する者がいます。多くの人は攀縁の意味を知らず、経典の文言に依拠するだけで法義に従いません。意根に念心所がないと言いますが、実際に念心所がなければ心は乱れず、善悪も生じず、世俗では愚者の如く、修行上では心が極めて清浄で禅定が深まった状態になります。実際に身心世界を観行して初めて智慧が生じ、事実をあるがままに知る「如実智」を得ます。経典の文言を暗記するのは人に依るのでなく、法自体をあるがままに観察し、観察から智慧が生じれば法を証得するのです。
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