捨心の状態
捨心とは、楽でも憂いでもなく、両極端を離れた中間の状態であり、貪愛も嫌悪もなく、良くも悪くもなく、苦でも楽でもなく、この時心は静穏で波立たず、高低の起伏がない。例えば人を見て何の感情も抱かず、好きでも嫌いでもない状態、これが捨心である。もし喜びの心が生じれば楽受を感じ、その人を嫌悪すれば苦受となり瞋恚心が現れる。よって感受には三種あり、苦受・楽受・不苦不楽の捨受となる。
「捨の声」とは、この声が善性にも悪性にも属さず、中間の良からず悪しからずの状態を指す。ある者が夢中で他人のまとまりない言葉、無意味な言葉を聞き、心には何も感じないながらも、それを実有的な事柄と見做し、絶えず回想する。たとえこの捨の境界を実有と執着し、捨念に貪着する者も、捨の六塵境界が同様に虚妄であることを知らず、生死を離れない。
ここでいう「不了義句」は、仏典中の不了義経とは区別され、同義ではない。仏典は了義経と不了義経に分けられる。了義経は真実を説き、実法を宣べるものであり、不了義経は実法を説かない。了義経は大乗経典の第一義諦である如来蔵の法を説く、これを了義と称し、根本法・実相法である。その他の経典で如来蔵法を説かないものは了義の経典ではない。私たちの真実の心である如来蔵を説かない法は、不了義であり根本経典ではない。ただし了義経にも不了義の文句があり、不了義経にはさらに多くの不了義文句が存在する。
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