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日常開示

2021年02月15日    月曜日     第1 回の開示 合計3098回の開示

『瑜伽師地論』第十巻(十二因縁)

(二十九)原文:復に、幾つの支が能く生ず。愛非愛の境界の果を。幾つの支が能く生ず自体の果を。謂く、前の六支は能く前の果を生じ、後の三支は能く後の自体の果を生ず。一支は倶に二果を生ず。 

釈:復に、幾つの支が愛すべきと愛すべからざる境界の果報を引き起こすか。幾つの支が自体の果報を引き起こすか。前の六支(無明・行・識・名色・六入・触)は愛すべきと愛すべからざる境界の果を引き起こす。後の三支(有・生・老死)は五陰身の自体の果報を引き起こす。一支(取)は同時に二種の果報を生じる。 

前五支(無明・行・識・名色・六入)は触支を引き起こし、触支は境界の果報を生ず。触がなければ境界の果は現れず、六入がなければ触はなく、名色がなければ六入はなく、前世の識がなければ名色はなく、意根の行がなければ識はなく、無明がなければ意根の行はない。後の三支(有・生・老死)は自体の果報を生じる。三界の有が存在すれば生の果報があり、生があれば老死の果報がある。取支は諸法への執着によって境界の果報を生じ、更に五陰の継続を招き自体の果報を生む。取がなければ境界も後世の有も現れず、一切の果報は存在しない。 

原文:復に、幾つの支が楽受と倶に行ずるか。二つを除き余の支を謂う。幾つの支が苦受と倶に行ずるか。即ち彼れ及び除かれた中の一つを謂う。幾つの支が不苦不楽受と倶に行ずるか。楽受の道理に応じて知るべし。幾つの支が受と倶に行わざるか。除かれた中の一を謂う。 

釈:楽受と共に作用する支は、受と愛である。楽受がある故に愛が生じ、愛がある故に執取が決定する。苦受は愛を生まず、故に執取せず。苦受と共に作用する支は受自体と老死である。不苦不楽受も同様に受と愛が相伴う。受と倶に行わない支は有支である。 

原文:復に、幾つの支が壊苦に摂せられるか。楽受と倶に行う支及び受と倶に行わざる支の一分を謂う。幾つの支が苦苦に摂せられるか。苦受と倶に行う支及び受と倶に行わざる支の一分を謂う。 

釈:壊苦に属する支は楽受と相伴う受・愛、及び有支の一部である。壊苦は楽受の消滅による苦を指す。苦苦に属する支は苦受と相伴う受・老死、及び有支の一部である。苦苦は苦自体が苦であることを指す。 

原文:幾つの支が行苦に摂せられるか。全ての壊苦・苦苦の支も亦た行苦の支なり。或いは行苦に摂せられて余の二苦に非ざるものあり。不苦不楽受と相伴う支及び受と倶に行わざる支の一分を謂う。 

釈:行苦は一切の有為法に遍く、刹那生滅する故に苦なり。不苦不楽受と相伴う支及び有支の一部は、専ら行苦に属する。行苦は諸行無常の本質を体現す。

——生如法師の開示
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