昔の人々は根機が優れており、心性が純粋で実践的であり、修行のために代償を払うことを厭わず、真実の修行を実践して私利を計らず、物事に執着せず、煩悩が軽微で貪欲が少なく、出離心が強かった。現代人は浮ついて地に足がつかず、目は高いが手は低く、空腹ながら高慢な心を持ち、口先ばかりが達者で、全てを意識で広く聞き表面的に理解し、禅定の中で深く参究することができず、意識の表面に浮かんだままで内面に深く入ることができない。意根の究明と意識の理解は雲泥の差があり、理解が多いが故に慢心が激しく、最も重い障害となっている。
昔の人は仏法の基礎が確固としており、微細な部分まで修行が行き届いていた。現代人は基礎仏法を軽視し、四聖諦を必要不可欠とせず、高遠を好んで小事を捨てる。基礎的な修行がないため煩悩を降伏できず、心の働きを転換できず、身口意の行いが貪瞋痴の煩悩に染まり、業障がますます重くなるばかりで、仏法を学んでも進歩がない。現代人は外道を蔑むが、仏法の知見以外では外道の半分にも及ばない。外道たちは出離心を持ち、心が純朴で禅定が深く、煩悩が極めて軽微で、自らを厳しく律し、道徳的資質などあらゆる面で現代の仏教徒を凌駕している。
外道は真の解脱法に触れていないだけで、一度触れれば即座に初果から四果まで証することが可能である。現代人は生涯仏法に触れても初果の影さえ見えず、偽りの証果を除けば、どうして外道と比較できようか。外道は智慧が不足し相応の法に遇わないため、証果解脱まであと一歩のところにある。多くの外道が仏法に遇い、仏陀の法音を聞くやいなや、髭が自然に落ち袈裟をまとい、煩悩を断じ尽くした。過酷な生活環境の中、外道たちは深山幽谷で坐禅三昧に励み、仏陀の説法に遇えば数万人が仏陀に随って出家修道し、証果する者も極めて多かった。
我々は長年にわたり仏法に触れながら、数十年経っても八正道を修められず、最も基本的な欲界定さえ得られず、心は貪瞋痴の煩悩に満ち、人我の是非に日々囚われ、少しの苦も受け入れず、少しの享楽も捨てられず、財色名食睡に執着し、口先の理論は天に届くが、身体の行いは悪道に近い。もし大乗仏教の修行者がこのような姿ならば、それは大乗法を辱め滅ぼす行為であり、この事実に気付く者はほとんどいない。
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