臨終の業報が現前する時の様相
身口意の業行そのものは消滅し、命終の時を待つ。まさに息が絶えようとする刹那、この色身に受けるべき業報、造った業が、映画のように速やかに走馬燈のように過ぎ去る。一生の行いが瞬時に過ぎ去り、自らが造作した業の善悪、受けるべき報いをことごとく明らかに知る。しかしその時は言葉を発することができず、親族に業の浄化や追善供養、罪過の埋め合わせを求めることも、自らの受報の行き先を伝えることも叶わない。語り得る時には業行は現前せず、業報現前の時には、今生が全て夢幻の如きものであったと覚り、日頃生きている時には得難い心境を体得する。まさに今生が夢の如く終わることを知るのである。
仏道を修め十回向位に至る時、悟るのは今生のみならず前世も夢の如く、来世もまた夢幻に等しく、成仏以前の未来世は全て夢中にあることを。生生世世は夢の中で生まれ夢の中で死ぬ。菩薩が仏事を行じ、自他を済度するのも夢中にあり、夢幻の如く非実在で、夢中の仏事を営むに等しい。
現時点ではこれを理解するのみで、証得せねば真実の体得はなく、従って無始劫来より生死の大夢を繰り返してきたことも知り得ない。連鎖する夢の如く、成仏以前は全て生死の大夢の中にある。分段生死の衆生は区切られた夢を見、分段生死を過ぎれば変易生死という微細で長大な夢を見続ける。これもまた生死の大夢から完全に覚めたとは言えず、成仏して初めて生死の大夢は究竟するのである。
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