衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年01月31日    日曜日     第1 回の開示 合計3048回の開示

如来蔵は何に基づいて色身を保持し変造するのか

如来蔵は常に寂滅の状態にあって動ずることなく、もし何らかの法を現行させる場合、必ず意根の心の動きによる結果であり、必ず意根という俱有縁が存在する。表面的には如来蔵が名色の受精卵を形成し、受精卵を変造し色身組織を修復する際、意根の機能作用がないように見えるが、実際には全て意根の作用を伴っている。意根は永遠に業種と相応し、如来蔵はまた業種に随順する。福徳ある業種も無福徳の業種も共に随順するが、これは意根に随順するのと等しい。如来蔵が世俗法を生じる場合、ほとんどの場合業種に基づいており、たとえ意根が絶えず思惟し選択を続けても、如来蔵が意根に配合する際には依然として業種に依拠し、福徳因縁や他の因縁条件に従う必要がある。

もし因縁条件が許さず、福徳が不足し、業種も存在せず、あるいは業種がまだ成熟していない場合、如来蔵は意根の選択に従って法を生じることができない。例えば多くの人々が昇進して財を成したいと願い、殊勝な世俗の果報を得ようとするが、業種がなく因縁も熟していないため、従来通りの平凡な生活を続けるしかない。また例えばある人は多病の果報を受けるべき場合、如何に努力しどれだけの金銭と精力を費やしても、身体を修復して健康にすることはできない。皇帝のような福徳を持っていても不可能であり、一旦皇帝が福徳を使い果たせば、自殺するか殺されるか、あるいは簒奪されて追放される可能性がある。世の中には生まれながらに大福徳を持つ人も多いが、幼少期から極度にこれらの福徳を享受し消費するため、成長後福徳が尽きると、死に至るか生活に困窮するか、あるいは災難が絶えなくなる。

三界の果報は業力に随って牽かれ、如来蔵は業力に随って転ずる。しかし願力が業力を上回れば、如来蔵を願望に随って牽引することができる。凡夫が大願を発すれば次第に業力の束縛から脱し、生まれ変わって聖人となり、遂には仏と成る。故に懺悔して願を発することは強力な修行方法であり、願いがある限り、意根に願いがある限り、遅かれ早かれ実現の日が訪れる。全ての願いは空願ではなく必ず実現するが、ただ因縁の具足する時期の問題である。これらの大願を発した後、如来蔵に記載され、種子が成熟すれば願い通りとなる。我々が為すべきことは、第一に清浄なる大願善願を発すること、第二に願力の種子が成熟するよう努力することで、将来願果を得ることができる。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

凡夫と聖者の差別の境界に関する考察

次の記事 次の記事

瑜伽師地論 第十巻(十二因縁)

ページのトップへ戻る