衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年01月30日    土曜日     第4 回の開示 合計3047回の開示

凡夫と聖者の差別の境界に関する考察

末那識は六識の染浄の依り所であり、末那識が染まれば六識も必ず染まり、末那識が浄まれば六識も必ず浄まります。では、末那識が我見を断たない場合、意識は我見を断つことができるのでしょうか。末那識が煩悩の結び(三つの結び)を断たず、三縛結を断たないならば、意識は三つの結びを断つことができるのでしょうか。末那識が三縛結を断たないため、命終の際に業障に引かれて地獄に赴き報いを受ける時、意識はどこへ向かうのでしょうか。

末那識が凡夫の無明の位にある時、意識のみが単独で初果の聖人となり得るのでしょうか。この者は凡夫と見做されるべきか、それとも証果の聖人と見做されるべきか。あるいは二者に分裂するのでしょうか。もしある者が自分を傷つけ、末那識が強く我執に固執して報復を遂行しようとする時、意識はこの事態にどう対処すべきでしょうか。

意識が清明で正理を悟り、既に薫習を受けた時には、末那識に道理を説き、逆に末那識を薫習させて、報復せず悪業を造らぬよう抑制調伏することが可能です。しかし臨終と中有の時には意識力が弱まり、末那識を牽引し説得する手段が失われます。

夢中において意識は末那識を導き諫めることができるでしょうか。もし夢中ですら自己を把握できないならば、臨終の際には尚更自己を把握できません。把握とは何を指すのでしょう。それは意識が理を明らかにして末那識を調伏し、末那識の方向を正すことです。明らかに臨終と中有においては意識は末那識を把握できず、この時末那識は業力に随うか、あるいは願力に随うかで、意識の牽引には従いません。では修行が意識の段階に留まり、一歩も進もうとしないのは、非常に危険で信頼できない状態ではないでしょうか。

——生如法師の開示
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