衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年01月27日    水曜日     第1 回の開示 合計3035回の開示

識心の認識がどのような次元に達すれば、智慧と呼ぶことができるのか

識心が法を認識する程度には差異があります。煩悩の障りが深刻な認知は往々にして邪見であり、煩悩の障りがやや軽い認知は時に正しいこともありますが、それはあくまで従前の誤った認識に比しての相対的正確さに過ぎず、完全な正しさではありません。その知見は正しい方向に幾分修正されたに過ぎず、識心に若干の慧の力が生じたものの、まだ智とは言えません。智とは煩悩の障りが除かれた後の正しい認識であり、煩悩の障りがないため識心の認識に煩悩性や染汚性がなく、清浄性が明らかに顕現します。そこから生じるのは善業と清浄の業のみで、悪業を造作することはありません。この段階の智にはほとんど誤謬がなく、あるいは極めて稀にしか誤謬が生じないため、信頼と依存に値するものであり、初めて智と呼ぶに相応しいのです。 

仏陀が涅槃に入られる際、後世の衆生に「智に依りて識に依らず」と遺訓されました。この智とは通常の智慧を指すのではなく、証果や明心直後に生じる無生忍の智でもなく、煩悩の障りのない無生法忍の智、識を転じて智となった後の智、道種智の智を指します。証果や明心したばかりの段階では、智慧は凡夫より深まっているものの、煩悩の障りが残存しているため智慧は依然浅薄で、心の染汚も顕著です。時に煩悩によって悪業を造作することさえあるため、これは智とは言えず、法に対する認識は慧と呼ぶべきものであって、智と称するに足りません。結果に損害作用がある限り、それは不智であり、智とは呼べません。結果がすべて善である行為こそが明智の所行であり、初めて智と呼び、依存に値するのです。 

凡夫の心識が思惟するものはすべて識性であり、煩悩の慣性に依って生起する了別と抉択作用は全て識性に属し、智はありません。証果や明心しても煩悩を断じていない賢者の思惟には一定の智慧が生じ、識心の慧力が増強された状態を慧と呼びますが、依然智ではなく、大筋では識性の範疇に属し、完全な依存や依拠はできません。故に多くの人々は多少の法を学ぶと自らを殊勝で優れていると認識しますが、これらは全て識性の認知範囲に属し、誤った要素が依然として非常に大きな比重を占めています。従って己の意を過信すべきではなく、このような自信はほぼ誤信であり、慢心が引き起こす結果に他なりません。多くの人が自覚している「不疑」も真の不疑ではなく、智慧が不足している段階では疑いがあっても内観できず、自らが事実と考えるものは往々にして事実ではなく、単なる判断誤りに過ぎないのです。

——生如法師の開示
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