衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年01月24日    日曜日     第3 回の開示 合計3028回の開示

衆生の心の中で確認された法は本当に正しいのでしょうか

衆生の心の中で確認された法は必ず正しいのでしょうか。そうではありません。もしそうなら、仏は衆生に「汝の意は信じるべからず、阿羅漢果を証して初めて汝の意を信ずべし」と説かなかったでしょう。ここでいう阿羅漢果とは小乗の極果である四果を指し、三果ではまだ不十分です。確認とは意根の肯定と承認を意味し、無間作意が形成され、骨髄に徹し、揺るぎなく、また深く知り難いものです。例えば我見を、衆生の意根はこれを確認し、根深く固着して揺るがず、我執と呼ばれます。

自らの意を疑いなく強く信じ、自らを強く肯定することは意根の確認に他なりませんが、凡夫衆生の確認は大きな過失を伴い、甚大な生死の禍いがあります。例えば凡夫は皆五蘊を我と確認しますが、このような確認は邪見であり正見ではありません。凡夫衆生は無始劫以来、常に自らの見解が正しく誤りないと確認してきましたが、無始劫を通じて誤った倒錯した見解によって生死輪廻し、諸々の悪報と苦報を受けてきたのです。

「汝の意は信じるべからず」という仏陀の教えは、凡夫衆生を戒めるだけでなく、初果・二果から三果の修行者にも当てはまります。四果に至る前に五蘊世間の空についての認識が未だ不十分で究竟しておらず、思想観念における我見が断ち切れず、なお我執が残っているためです。四果阿羅漢は我見を断じ尽くし、空を徹底的に悟り、我執を消除したため、その空の思想観念は純粋となり、初めて汝の意を信じるに足るのです。このような空の思想は小乗法の範囲内では徹底且つ究竟していますが、大乗法と比べれば、依然として全く徹底・究竟しているとは言えません。

したがって凡夫が果を証するか否かは、一般的にその智慧だけでは自己検証に不十分です。第一に修行の時劫が短く経験不足、第二に見聞が狭く比較対照するものがないため、誤判や錯判を起こしやすく、加えて心中に我が存在し愛着を断ち切れないため、自己に偏り過大評価し、仮悟と妄語を生じ易く、因果は厳然として働くのです。

——生如法師の開示
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