万法の空を証得した時にのみ煩悩を断じ得る
仏は「業の転変に作者なく受者もなし」と説かれた。業行の生起・作用・消滅は全て空であり、業を造る者もなく、業を受ける者もなく、報いを受ける者もない。一路に空を究めれば聖者の果報を享受し、この人は既に凡夫ではなく、凡夫の心行は存在しない。貪瞋痴の煩悩は沸騰した湯が雪を溶かすように速やかに消融する。かくして様々な煩悩に対治するために心血を注ぎ精力を費やす必要はなく、種々の対治法をもって煩悩を対治する心の労苦から解放される。多生多劫にわたる対治も根本問題を解決せず、一切法を実体あるものと見做し存在と認める限り、如何にして徹底的に対治し根本問題を解決できようか。現前に一切が空幻であることを認識すれば、尚更に対治など必要あろうか。全く以て対治の要なし。
故に貪瞋痴の煩悩に付き従い、貪瞋痴の煩悩を対治するというそのような行いは、修行として実に迂遠で曲折多く遅きに過ぎる。最も根本的な方法でもなければ最速の捷徑でもない。我々は根本より着手すべきである。譬えば大樹を除去せんとするならば根元より着手し、樹根を断ち切れば全樹は倒れ再び生じない。修行は枝葉を摘むべからず。一枚一枚の葉を徐々に摘み続けても、摘み終わればまた生じ、摘み終わればまた生じ、永遠に摘み尽くすことはできない。対治的な修行方法は樹の葉を摘むようなものであり、前述の観行の方法は全て樹根を截断する方法である。完全徹底的に根元より截断すれば、樹葉・樹枝・樹幹は再び生長できず、再び生じる術なくして滅絶する。煩悩を断除することもまた同様で、直截に万法の根源に至り万法の空を証得すれば、万法に対面する時再び煩悩を生起することはない。
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