衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年01月12日    火曜日     第1 回の開示 合計2991回の開示

瑜伽師地論 巻第十(十二因縁)

(一)原文:欲愛とは何か。欲界の諸行を縁として生じ、欲界の行における染汚なる希求を指す。これによって欲界の苦果を生ずることができる。色愛とは何か。色界の諸行を縁として生じ、色界の行における染汚なる希求を指す。これによって色界の苦果を生ずることができる。無色愛とは何か。無色界の諸行を縁として生じ、無色界の行における染汚なる希求を指す。これによって無色界の苦果を生ずることができる。

釈:欲愛とは、欲界の全ての行為を縁として生じる愛楽であり、欲界において行われる染汚なる希求・追求・想念・願望を指す。これらの希求と愛楽によって欲界の苦果が生じる。色愛とは、色界の全ての行為を縁として生じる愛楽であり、色界において行われる染汚なる希求と願望を指す。この染汚なる希求によって色界の苦果が生じる。無色界愛とは、無色界の一切の行為を縁として生じる愛楽であり、無色界において行われる染汚なる希求と願望を指す。これによって無色界の苦果が生じる。

欲界の諸行には、欲界における一切の生命活動、根・塵・識の三者和合による触および受、六識が一切法を見て起こす貪愛染汚の心行が含まれる。染汚とは、心が清浄でなく、寂静でなく、執着を捨てず、求めるところがあり、我執があり、貪瞋痴の煩悩などを有することを指す。衆生の心は常に染汚の坑中にあり、染汚が甚だしく深刻であるため、自心の染汚を反観することが難しく、染汚と清浄の境界と基準も知らない。自らの一切の心行を正常と見なし、天経地義のごとく、本来あるべき姿だと考えるため、衆生の修行は正軌に乗ることが難しく、修証の道は実に長遠で困難である。脱胎換骨して初果や初果向を証得することは容易なことではない。

色界と無色界には四禅八定があるが、なぜ依然として希求があり、染汚が存在し、染汚行を行うのか。初果と二果の聖者は四禅八定を持たず、四禅八定を有する者は三果と四果の聖者である。凡夫衆生の四禅八定は煩悩を抑制することはできるが、断除することはできない。彼らは我見を断っておらず、無明と我見によって不如理作意が生じ、染汚なる希求を有する。色界の諸行には、眼触による受生、耳触による受生、身触による受生、意触による受生が含まれ、その後色愛が生じて染汚なる希求を有する。無色界の諸行には意触による受生のみがあり、禅定の境界を愛着して染汚なる希求を有する。

同様に、色界と無色界の天人にも染汚なる希求と染汚行が存在する。三果阿那含と四果阿羅漢を除き、その他の者は程度の差こそあれ染汚を有している。初果須陀洹と二果斯陀含は初禅定を持たないため、命終して天に生ずる場合は欲界天にしか往生できず、色界・無色界天には至らない。三果の聖者は初禅以上の禅定を有し、命終すれば五不還天に生じ、ある者は中有身において四果となり無余涅槃に入る。四果で大乗に回心しない者は直接無余涅槃に入る。

したがって色界と無色界天の天人ほぼ全ては四禅八定を有する凡夫である。凡夫は我見を断じておらず、煩悩も未だ断じていない。禅定によって比較的粗重な貪瞋痴の煩悩を抑制できるに過ぎない。凡夫の天人は我見を断じていないため、五蘊十八界の中の某一法あるいは複数の法、或いは全ての法を我と見做し、執取を加える。ほぼ染汚なる心行と趣向を有し、ほぼ染汚なる希求と願望を有している。例えば長生不老を希求し、永生不死を願い、禅定の楽と福を求める。これらの希求は即ち欲望であり、生死輪廻の業であり、生死の苦を感召し、輪廻を出ることができない。色界と無色界に何の苦があるのか。生滅変異は即ち苦であり、死は即ち苦である。死後に依然として輪廻があると知ることが苦であり、死後に三悪道に取って報いを受けると知ることが苦であり、生命が永存できないことが苦であり、身体が長生不老でないことが苦である。

——生如法師の開示
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