(一)原文:欲愛とは何か。欲界の諸行を縁として生じ、欲界の行に於ける染汚なる希求を指す。これにより欲界の苦果を生ずる。色愛とは何か。色界の諸行を縁として生じ、色界の行に於ける染汚なる希求を指す。これにより色界の苦果を生ずる。無色愛とは何か。無色界の諸行を縁として生じ、無色界の行に於ける染汚なる希求を指す。これにより無色界の苦果を生ずる。
釈:欲愛とは、欲界の全ての行為を縁として生じる愛楽であり、欲界における染汚な希求・追求・念願をいう。これらの希求と愛楽によって欲界の苦果が生じる。色愛とは、色界の全ての行為を縁として生じる愛楽であり、色界における染汚な希求と念願をいう。これにより色界の苦果が生じる。無色界愛とは、無色界の一切の行為を縁として生じる愛楽であり、無色界における染汚な希求と念願をいう。これにより無色界の苦果が生じる。
欲界の諸行には、欲界における一切の生命活動、根・塵・識の三者和合による触および受、六識が一切法を見て生じる貪愛の染汚心行が含まれる。染汚とは、心が清浄でなく寂静せず、執着があり、求めるところあり、我執があり、貪瞋痴の煩悩を有することを指す。衆生の心は常に染汚の坑中にあり、あまりに染汚が甚だしいため、自心の染汚を省みることが難く、染汚と清浄の境界を知らない。自らの一切の心行を当然のものと見做すため、衆生の修行は正道に乗ることが困難であり、修証の道は実に長遠で艱難を極める。脱胎換骨して初果や初果向を証得することは容易なことではない。
色界と無色界には四禅八定があるが、何故なお希求があり、染汚が存在し、染汚行を行うのか。初果・二果の聖者は四禅八定を有さず、四禅八定を有する者は三果・四果の聖者である。凡夫衆生の四禅八定は煩悩を抑伏するのみで断除することはできず、彼らは我見を断っておらず、無明と我見によって不如理作意を生じ、染汚な希求を有する。色界の諸行には眼触生受・耳触生受・身触生受・意触生受が含まれ、その後色愛が生じて染汚な希求を有する。無色界の諸行には意触生受のみ存在し、禅定の境界に愛着して染汚な希求を有する。
同様に、色界・無色界の天人にも染汚な希求と染汚行が存在する。三果阿那含と四果阿羅漢を除き、その他の者には程度の差こそあれ染汚が残る。初果須陀洹と二果斯陀含は初禅定を有さず、命終して天に生ずる場合は欲界天に往生するのみで色界・無色界天には至らない。三果の聖者は初禅以上の禅定を有し、命終すれば五不還天に生じ、ある者は中有身において四果となり無余涅槃に入る。四果で大乗に回心しない者は直接無余涅槃に入る。
故に色界・無色界天の天人ほぼ全ては四禅八定を有する凡夫である。凡夫は我見を断じておらず、煩悩も未だ断じていない。禅定に依って比較的粗重な貪瞋痴の煩悩を抑伏するのみである。凡夫の天人は我見を断じていないため、五蘊十八界中の或る一法、複数の法、あるいは全ての法を我と見做して執着し、ほぼ染汚の心行と趣向を有し、ほぼ染汚の希求と念願を有する。例えば不老不死を希求し、永劫不滅を願い、禅定の楽と福を求める。これらの希求は即ち欲望であり、輪廻の業そのものであり、輪廻を出ることなく生死の苦を招く。色界・無色界に何の苦があるか。生滅変異は即ち苦であり、死は即ち苦であり、死後に尚輪廻あることを知るは苦であり、死後に三悪道に堕ちて報いを受けるを知るは苦であり、生命が永続せざるは苦であり、身体が不老不死ならざるは苦である。
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