万般のものは持って行けず、ただ業のみが相随う
識心が出生した後、色身において相続不断に運行し、死に至るまで続く。この一期の生命が終わる時、眼識・耳識・鼻識・舌識・意識の六つの識心が全て滅した後を死蘊と呼び、身体は一塊の木の如くなる。最初に眼・耳・鼻・舌・身・意識が出生した時を生蘊と呼び、一つの生と滅が即ち一期の生命である。
各期の生命が生じ消滅する時、何一つ持って来ず何も持って行かぬ。ただ業行を持ち来たり持ち去りて報いを受けるのみで、他の全ては跡形もなく消え去る。故に一切の万法そのものが生滅の法であり、空なるものは持って行けず、真実のもののみが持って行ける。何が持って行けるかと言えば、如来蔵が常に自らに付き従い生生世世を経て、業種を生生世世に持ち運び、生生世世の業報を実現する。五陰が何処で報いを受けるかについては、如来蔵は無関心である。彼は報いを受けず、ただ業に随って不断に五陰身を顕現し、決して衆生を見捨てない。では誰が私たちの最も親しい存在かと言えば、それは如来蔵である。あまりに親密で、一瞬たりとも私たちを捨て離れようとはしない。
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