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日常法話

2020年12月31日    木曜日     第3開示 合計2954開示

父子合集経講記(八〇)

<h2 style="text-indent: 2em;">身空と心空をいかに証得するか</h2>

身口意行が最初に造作される時、刹那に滅し謝します。たとえば私が刀を取って人を殺す場合、刀を手に取った後、刀を取る行為はもうなくなります。次の段階で手を伸ばし、その後、手を伸ばす行為もまたなくなります。さらに次の段階で、刀を相手の身体に突き刺し、その後この行為もまた消えます。さらに次の段階で刀を抜き、行為は消え、さらに次の段階で刀を捨てるか洗うかすると、行為はまた消えます。人を殺すという行為が一連の造作として現れ、後の動作が現れると、前の動作は消えます。すべての行為が消えた後、実際に人を殺すという行為は消えたのかどうか。この行為が消えないとすれば、殺し続けることになりますが、それはあり得ず、いかなる行為にも必ず終わる時があります。行為そのものは造作し終えると滅するのであり、それゆえ生滅性のもので、了不可得なのです。しかし種子は消滅せず、刹那刹那において如来蔵の中に存在し続け、将来縁が熟して果報を受けるのを待ちます。

行為の造作は刹那に滅し謝し、非常に速く、一刹那ごとに八万一千の種子が生滅、生滅、生滅と過ぎ去って、初めて人を殺すという行為全体が形成されるのです。それゆえ殺人の行為はすべて生滅性のものであり、しかしこの行為全体が業種として自らの如来蔵の中に収められるのです。一弾指一刹那の間に、八万一千の種子が生滅して過ぎ去り、無数の生滅現象がこの一弾指を形成したのであり、それゆえ弾指という法は虚妄なのです。そして殺人という法は、無量の弾指の時間が連なって構成され、無量の弾指に類する行為によって構成されているのですから、殺人の行為もまた虚妄で、生滅的で、無我性のものなのです。このように観行 (vipaśyanā-caryā) を進めていけば、小乗の身空を証得することができます。

同様に、識心の種子の刹那生滅を観行することもできます。無数の刹那生滅が識心の連続した分別造作の行為を構成しており、識心は生滅、虚妄、無我のものなのです。こうすれば心空を証得することができ、身空に心空を加え、五陰 (pañca-skandha) 空、無我となれば、小乗の初果須陀洹が証得されるのです。

この観行で断我見 (ahaṃkāra-mamakāra-parityāga) すると同時に、さらに観行を続けて、殺人という一連の行為はどのように造作されたのかを見ていきます。一弾指の行為から観行でき、一弾指の間に、どうしてあの八万一千の種子が現れるのか。どうやって弾指するのか。如来蔵はまたどのように業行を記録するのか。このように観行すれば、禅定の良い人は証悟が非常に速く、誰かに導かれれば数分で証悟し、誰にも導かれなければ一万劫、八万劫かかります。証果するには、因縁が熟すれば一刹那のことであり、因縁が熟しなければ、百千万劫、六道の中で迷い惑い続けるのです。

業行は刹那に滅し謝しますが、これらの業行は東西南北四維上下中間のいずれにも依って住するのではなく、このようにして消えてしまうのです。たとえば私が手を上げて、また下ろすとき、手を上げる業行を観察すると、消えるときにどこへ行ったのでしょうか。業行は消えて、どこにも住していません。もし住する場所があれば、そこには常に私が手を上げていることになります。もし殺人であれば、殺人の業行が常にどこかにあることになり、それはひどくまずいことになってしまいます。

——生如法師の開示
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五陰(pañca-skandha)はなぜ私ではないと言えるのか

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中阿含大縁経

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