阿難よ、楽受は実に無常にして有為なるもの、縁起の法、滅尽の法、壊敗の法、離欲の法、滅する法なり。阿難よ、苦受もまた実に無常にして有為なるもの、縁起の法、滅尽の法、壊敗の法、離欲の法、滅する法なり。阿難よ、不苦不楽受もまた実に無常にして有為なるもの、縁起の法、滅尽の法、壊敗の法、離欲の法、滅する法なり。
もし楽受を領納する際、なおも「これこそ我が我なり」と考える者が、楽受の滅に依って、実に「我が我の滅」と考えるべきにあらず。苦受を領納する際、なおも「これこそ我が我なり」と考える者が、苦受の滅に依って、実に「我が我の滅」と考えるべきにあらず。不苦不楽受を領納する際、なおも「これこそ我が我なり」と考える者が、不苦不楽受の滅に依って、実に「我が我の滅」と考えるべきにあらず。
「受こそ我が我なり」と説く者に対し、現見の法において「我は無常なり」と観察すべし。楽苦は皆、消滅する生滅法に帰す。阿難よ、これに依って受を我が我と観察することは不可能なり。また「受は実に我が我にあらず、感受せざるものこそ我が我なり」と説く者に対し、かく問うべきなり:「友よ、一切の所受なき所において、なお我ありと考えることができようか」世尊よ、実にそうではございません。阿難よ、これに依って「受は実に我が我にあらず、感受せざるものが我が我なり」と観察することは不可能なり。
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