衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年12月31日    木曜日     第2開示 合計2953開示

五陰(pañca-skandha)はなぜ私ではないと言えるのか

五陰十八界は生じ滅する幻化の仮相であり、それ自体に主宰性がないので、我ではない。例えば、木の束や土や水が一つの法則に従って混ざり合って家屋が形成されるが、この家屋は生滅する幻化の仮相であって、自主性がなく、散壊せよと言えばすぐに散壊するので、自主できる実有の法として、家屋と執取することはできない。 同理、五陰といういわゆる我も、七大の種子を和合させて構成されたものであり、生々滅滅する実在しない法であって、自主性がなく、自我の主宰性もないので、我とすることもできず、我所とすることもできない。それゆえ五陰は我と我所ではなく、我と我所は存在せず、貪り執着し、執取する必要はなく、様々な部品を組み立てて作られた法を、依り頼むことのできる我とみなしてはならない。では、和合して構成された法に依り頼むことをやめた後、どうなるのか。五陰十八界を執取しなくなるが、他に何かあるだろうか。もし心中にこのような考えがあり、他に何かあるのではないかと考えているならば、私の断尽はまだ完成しておらず、まだ執取があり、まだ求めるものがあるということだから、生死もあり、苦もあるのである。 

もし断我見における我をはっきり理解できなければ、真に断我見することはできない。もし五陰は第八識に非ず、第八識ではなく、第八識に異ならず、というような結論を導き出したならば、それは断我見する必要がなく、五陰十八界に対して如実に如理に観行 (vipaśyanā-caryā) したことにもならず、心中には依然として五陰十八界という我が存在しており、五陰十八界の我を廃除していないのであり、単に意識が五陰十八界は第八識ではないと考えているだけである。

——生如法師の開示
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