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日常法話

2020年12月31日    木曜日     第1開示 合計2952開示

中阿含大縁経

原文:阿难。要如何观察我耶。阿难。对于受。或以受是我之我。或以受实非我之我。不得感受者。即是我之我。阿难。如是观察我。或以受实非我之我。又不得感受者。亦非我之我。我应依我之领纳。即受之法。始是我之我。阿难。如是观察我。 

解釈:仏はおっしゃった:阿難よ、どのようにして我を観察すべきなのか。受陰に対して、あるいは受陰を我の中の我として観察し、あるいは受陰は確かに我の中の我ではないとして観察するならば、何ら感受しないものこそ、所説の我の中の我である。阿難よ、このように我を観察するならば、あるいは受陰は確かに我の中の我ではなく、また何ら感受しないものも我の中の我ではないと観察するならば、私は我の領納、すなわち受という法に依拠してこそ、初めて所説の我の中の我となるのである。 

原文:阿难。此中对于言受是我之我者。不得不如是言。友。此受有三。是乐受苦受。不苦不乐受。此等三受之中。汝见何为我耶。阿难。若于某时。领纳乐受。其同时不领纳苦受。又不领纳不苦不乐受。其时应唯领纳乐受。阿难。若又于某时。领纳苦受。其同时不领纳乐受。又不领纳不苦不乐受。其时应唯领纳苦受。阿难。若又于某时。领纳不苦不乐受。其同时不领纳乐受。又不领苦受。其时应唯领纳不苦不乐受。 

解釈:阿難よ、ここで受を我の中の我と言うことに対しては、このように言わざるを得ない:善き友よ、この受には三種あり、楽受・苦受・不苦不楽受である。この三種の受の中で、あなたがたは何を我と見なすのか。どの法を我と見るのか。阿難よ、もし或る時に楽受を領納しているならば、その同時に苦受を領納することはなく、また不苦不楽受を領納することもない。その時には唯だ楽受のみを領納しているのである。阿難よ、また或る時に苦受を領納しているならば、その同時に楽受を領納することはなく、また不苦不楽受を領納することもない。その時には唯だ苦受のみを領納しているのである。阿難よ、もしまた或る時に不苦不楽受を領納しているならば、その同時に楽受を領納することはなく、また苦受を領納することもできない。その時には唯だ不苦不楽受のみを領納しているのである。 

この段は我について観察しやすくなっている。もし受を我とするならば、受には三種あり、我も三種あることになる。しかし同一時間内には、唯だ一種の受しか存在できず、その場合にはその受のみが我であり、他の二種の受は我ではないということになる。これは明らかに正しくない。矛盾が生じたのであり、これこそが受は我ではないことを示している。もし受が我であるならば、三種の受は同時にすべて我であるはずだが、三種の受は同時に存在することができず、互いに対立しているのであり、受を我とすることは誤りであることが分かる。 有人はこう言うだろう、受はもちろん第八識ではないが、しかしこれらの文字と観察の内容は、第八識と結びつけることができるのか、と。明らかにできない。なぜなら声聞人はすべて現前において第八識を観察することができず、とりわけまだ我見を断していない凡夫の声聞人は、第八識を開悟して実証することができず、観行 (vipaśyanā-caryā) の次第がすでに顛倒しているので、実証はあり得ず、彼らが第八識を想像して観察することもあり得ないからである。想像したものは推測・憶想と呼ばれるものであり、何の作用もないのである。

——生如法師の開示
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