原文:阿難よ。いかにして我を観察すべきか。阿難よ。受に対して、あるいは受を我の中の我と観じ、あるいは受は実に我の中の我ではないと観じる。感受する者を得ざるもの、即ち我の中の我である。阿難よ。このように我を観察し、あるいは受は実に我の中の我ではなく、また感受する者を得ざるものも我の中の我ではないと観じる。我は我の領納に依るべきであり、即ち受の法こそが我の中の我である。阿難よ。このように我を観察せよ。
釈:仏は言われた:阿難よ、いかにして我を観察すべきか。受陰に対して、受陰を我の中の我と観じるか、あるいは受陰は確かに我の中の我ではないと観じるか。いかなる感受も得られないものこそ、いわゆる我の中の我である。阿難よ、このように我を観察し、受陰が確かに我の中の我ではなく、またいかなる感受も得られないものも我の中の我ではないと観じるならば、我は私の領納に依るべきであり、即ち受という法に依ってこそ、これがいわゆる我の中の我である。
原文:阿難よ。ここで受を我の中の我と言う者に対しては、こう言わざるを得ない。友よ、この受には三種ある。楽受、苦受、不苦不楽受である。これらの三受の中で、汝は何を見て我とするのか。阿難よ。ある時に楽受を領納するならば、その同時に苦受を領納せず、また不苦不楽受も領納しない。その時はただ楽受のみを領納すべきである。阿難よ。またある時に苦受を領納するならば、その同時に楽受を領納せず、また不苦不楽受も領納しない。その時はただ苦受のみを領納すべきである。阿難よ。またある時に不苦不楽受を領納するならば、その同時に楽受を領納せず、また苦受も領納しない。その時はただ不苦不楽受のみを領納すべきである。
釈:阿難よ、ここで述べられる「受は我の中の我である」という説に対しては、こう言わざるを得ない:善き友よ、この受には三種あり、楽受、苦受、不苦不楽受である。この三種の受の中で、あなた方は何を我と見做すのか?どの法を見て我とするのか?阿難よ、ある時に楽受を領納しているなら、あなた方は同時に苦受を領納せず、また不苦不楽受も領納しない。同一時に楽受のみを領納するのである。阿難よ、またある時に苦受を領納しているなら、この時は楽受を領納できず、また不苦不楽受も領納できない。この時はただ苦受のみを領納する。阿難よ、またある時に不苦不楽受を領納しているなら、この時は楽受を領納できず、また苦受も領納できない。ただ不苦不楽受のみを領納するのである。
この観点から我を観察することは容易である。もし受を我とするなら、受には三種あるため、私も三種となる。しかし同一時にはただ一つの受しか存在せず、その受のみが我となり、他の二種の受は我ではない。これは明らかに正しくない。矛盾が生じることで、受が私ではないことが示される。もし受が私であるなら、三種の受は全て同時に私であるべきだが、三種の受は同時に存在できず、互いに矛盾する。これにより受を我と見做すことが誤りであることが明らかとなる。ある者は言うかもしれない:受はもちろん第八識ではないが、これらの文言と観察内容を第八識に関連付けることは可能か?明らかに不可能である。声聞乗の修行者は全て第八識を現前に観察できず、特に我見を断じていない凡夫の声聞人は、第八識を悟り実証することができず、観行の次第が転倒しているため、実証を得ることは不可能である。彼らが第八識を想像して観察することはできず、想像は推測・憶測に過ぎず、何らの作用も持たない。
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