意根は捨受だけでなく、苦楽受も有する。意根には無明と煩悩が存在し、善悪の心所法がある以上、必然的に苦楽受が生じ、この苦楽受によって貪りと瞋恚の煩悩が生起する。仮に意根が捨受のみを有するならば、他人から殴打され罵倒され辱められても無関心でいられる。意識が不快に感じる可能性はあるものの、一時的なもので終わり、報復的な行動を起こすことはない。これが大修行者の優れた修養と品德であり、一般人は到底持ち得ない境地である。意根が捨受のみを有するならば、賞賛され祭り上げられても無動搖のままであり、権力・色欲・名誉・利益の前にしても平静を保ち、それらを追い求めることはない。栄華富貴に対しても淡白である。意識がこれらを好む可能性はあっても、僅かに好む程度に留まり、行動に移すことはない。これこそが大修行者の徳行と修養であり、一般人が到底及ばぬ境地である。
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