衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年12月30日    水曜日     第1開示 合計2949開示

意根の捨受 (upekṣā-vedanā)

捨受 (upekṣā-vedanā) とは苦楽の受を感じない受であり、意根が捨受であるというのにも一理あります。意根は身触に対しては捨受です。色身がどれほど疼痛を感じていても、意根は疼痛を感じることはなく、身識と意識が疼痛を感じるのです。身識と意識がないときには、色身は疼痛を感じません。たとえば手術のとき、身識と意識が存在していれば、人は覚醒しており、必ず激しい疼痛を感じます。痛覚を滅するために麻酔を打ち、まず身識を滅せしめ、次に意識を滅せしめます。こうしてメスを入れられても色身は疼痛を感じなくなるのです。

歯が痛いとき、眠りについた後は六識が滅するので疼痛を感じませんが、歯の炎症はまだ存在しており、目覚めると再び疼痛が続きます。ときには深夜に痛みで目覚めることもあります。なぜ深夜に痛みで目覚めることができるのでしょうか? 昏睡状態のときは、たとえ身体の状態がひどくても疼痛を感じませんが、目覚めると耐えがたい疼痛を感じます。地獄で果報を受けているときは、疼痛で気絶してはじめて疼痛を感じなくなりますが、業力は罪人を気絶させたままにはしません。業風が一吹きすると、罪人は覚醒し、果報を受け続けます。禅定の中では痛覚も軽減あるいは消失します。六識が消失するか微弱になるからです。

したがって、痛覚とは身識と意識が共に体験する覚受であり、意根にはこのような覚受がありません。たとえあったとしても、意識はそれを知らず、観察することもできません。衆生はすべて六識の覚受を覚受としており、六識が滅するか微弱になると、意根がどのような覚受や心理状態にあっても、意識はそれを知りません。知らないので、意根には何の感受もなく、何の心行もないと考えたり、あるいは意根は単純で智慧が浅いと言ったりするのです。

意根の機能作用が強大になって六識に代わるときには、すべての覚受は意根のものとなりますが、このときの意根の禅定と智慧の修為はすでに非常に勝れており、ほとんどが捨受であり、もはや情緒の動揺はありません。一般の衆生の意根にはまだ苦楽の受があり、捨受だけではなく、意識に類似した心理的覚受があり、屈辱や抑圧、憂鬱、憤恨、喜び、楽しみ、興奮など、情緒の動揺が大きく、それゆえにこそ怒りが天を衝いたり、手を舞い足を踏み喜びが顔に表れたりといった情緒が現れるのです。

——生如法師の開示
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