衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常開示

2020年12月25日    金曜日     第1 回の開示 合計2936回の開示

意根の五つの名称の意味

大乗起信論原文:生滅の因縁とは、諸衆生が心意識に依って転ずることを謂う。この意義如何。阿頼耶識に依って、無明不覚ありて起こり、能見・能現・能取の境界を分別相続し、意と名づく。 この意にまた五種の異名あり。一に業識と名づく、無明の力にて不覚に心動くを謂う。二に転識と名づく、動く心に依って能く境相を見るを謂う。三に現識と名づく、一切の諸境界相を現ずるを謂う。明鏡が衆色像を現ずるが如く、現識もまた然り。五境の対至するに即ち現前し、前後なく、功力によらず。四に智識と名づく、染浄の諸差別法を分別するを謂う。五に相続識と名づく、恒に作意相応して断絶せず、過去の善悪等の業を任持して失壊せしめず、現未の苦楽等の報を成熟して違越せしめず、已曾の事は忽然に憶念し、未曾の事は妄りに分別を生ずるを謂う。

釈:一切法の生滅は、全て因縁によって現起する。その中で意根は一切法現起の最も重要な因縁であり、衆生は皆意根に依って流転する。この意味は、意根が阿頼耶識に依り、自心の無明に随って阿頼耶識が生じる一切の境界法を見、阿頼耶識が生じる一切の境界法を現じ、阿頼耶識が生じる一切の境界法を取着し、相続して分別を続けながら、自らにこのような無明があることを毫も覚らないということである。

このような意根に五種の異名がある。第一を業識と称する。意根は業を造る主体であり、無明がありながら自らの無明を覚らず、無明の力が意根の心を動かし、作意が起こると、後に触受想思が現れ、心が決定した後で身口意の業行が造作され、業種を残して後世に報いを受け、生死が相続して絶えない。故に意根は業識であり、無明業力と相応し、生死と相応する。もちろん修行によって清浄と相応し、寂静と相応し、解脱と相応するようになる。故に修行とは意根を修め、我見を断ち、明心見性し、識を転じて智と成し、唯識種智を具え、仏と成ることである。

意根の第二の名称を転識という。意根の心が動くと、阿頼耶識はそれに随って境界を生じ、意根は境界相を見る。心が再び動くと六識が生じて業行を造作し、五陰の作用も現行し、後世の生死が絶えない。境界と五陰は皆意根の心の動きに随って現れ、生死もまた意根の心の動きに随って現れる。故に意根を転識という。

意根の第三の名称を現識という。意根が阿頼耶識に依り、阿頼耶識が何れの境界を変現しようとも、意根はその境界を了別し、心中にその境界を現じることができる。あたかも明鏡が衆色像を現ずる如く、阿頼耶識が境界を生じるや、意根はほとんど同時に心中に境界を現じ、敢えて加工する必要がない。

意根の第四の名称を智識という。一切の善悪是非等の染浄の法を分別し、一切法の差別相を明らかにすることができる。起信論で意根を智識と説くのは絶対に正しい。作主識として衆生の根本を表し、衆生の一切を決定する。もし五陰身の作主識にこのような智慧がなければ、五陰に智慧はなく、世間に智慧ある人はいなくなる。意根の慧が劣るとする説は完全に正しいとは言えない。具体的に極めて微細な法塵を分別する際、意根は確かに意識に及ばないため意識を用いるが、一旦意根が微細な法塵を分別する能力を得れば、意識と五識は用をなさず、意根自ら直接に六識の機能を代行し、識を捨て根を用いれば、多くの煩わしい事や遮障がなくなり、大神通が現前する。

意根の第五の名称を相続識という。意根が相続識と称される所以は、意根の五遍行心所法が永遠に相続断絶することなく運行し、阿頼耶識が意根に随って不断に一切法を生起運作するため、五陰世間が相続して絶えないからである。このように一切の善悪染浄法は意根に随って不断に現じ、善悪業は絶えることなく、善悪果報は失壊しない。意根が生生世世無始劫以来経験した事柄は、因縁ある場合に忽然として憶念され、未だ経験せざる事柄も虚妄に分別される。

起信論がここで意根に憶念作用があると説くのは極めて正しい。意根もまた心であり、かつ極めて重要な心で、極めて重要な作用を果たす。主人である以上当然憶念作用があり、念心所を有し、一切法を憶念し心配する。一切法は主人のみが心配し憶念するもので、処理しようとする時に初めて使者を呼び出して具体的に処理させる。使者は常に現前せず、主人が必要とする時のみ現れる。唯識論書の中で、馬鳴菩薩の著作である大乗起信論の証量は非常に高く、意根の心所法を如実に観察している。訳者の実叉難陀菩薩も証量が高く、翻訳は精確で理に適い真実である。これは信頼に値する唯識論書である。

——生如法師の開示
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