身は私ではなく、私の所有物でもない。私はこの身に仮住まいしているが、一旦身が消滅すれば、再び別の身を求めて住まわなければならない。ここで言う「私」とは誰を指すのか。身体を私や私の所有物と見なすその主体こそが「私」である。まず如来蔵は決して身体を私や私の所有物とは見なさない。如来蔵は身体を使って何かを為そうとも為すまいとも思わず、世間法の運行に対して無心である。故にこの「私」は如来蔵を指すのではない。
ではこの「私」とは七識を指す。五識の心作用は非常に粗雑で「私」という観念を持たない。意識には「私」という思想観念があるが、転生して身体に住まう際に意識は力を発揮できず、身体においても継続的ではなく、身体を主宰することもできず、主要な責任を負えない。故にこの「私」とは意根を指すのである。
何かに依りどころを持ち利用しようとするのは、意根が最も関心を持ち執着する事柄である。転生して色身を得ることは意根が最も重視し執着する事柄であり、五蘊の機能作用は意根が最も把握しようとするものである。故に意根の我見は根深く、最も頑固である。一旦意根が色身五蘊を私や私の所有物ではないと認識すれば、色身五蘊への執着は次第に断ち切られ、五蘊世間の一切の苦受から解脱するのである。
中国語の語彙は豊富ではなく、仏法と世俗の用語を区別できないため、多くの法義が正確に表現できず誤解を招いている。例えば「真」という言葉は世俗法と仏法で同じ語を用いるが、世俗法における「真」の意味と仏法における「真」の意味は全く区別できず、往々にして混同される。特に大乗如来蔵法を学んだ者は、「真」と聞けば即座に如来蔵のような真心や真実性を連想する。世俗法でも人々は「真心」や「真実」という言葉を用いるが、これらは如来蔵とは全く関係がない。例えば甲が乙に問う「本気でそうしたいのか」「心から望んでいるのか」「本当の考えは何か」「これは真実か」「本物か」――いずれも如来蔵とは無関係である。しかし如来蔵を学ぶ者は何でも如来蔵に結びつけ、如来蔵に頭がないのにどうして結びつけられようか。
世俗法にも「我」があり、仏法にも「我」がある。両者の意味は極めて異なるが、如来蔵を学ぶと混乱し、どの「我」か判別できなくなる。「我」の文字を見れば即座に如来蔵を指すと考え、まさか我見を断つことが如来蔵見を断つことだろうか。五蘊が「我」であるとは、五蘊が如来蔵だと言うのか。五蘊が「非我」とは必ず五蘊が如来蔵ではないと言うのか。
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