仏は喜び楽しむ仏法の菩薩について説かれた。菩薩は善知識を恭敬供養すべきであり、法を聞くが故に、法を得んが故に、法を求めんが故に、世間の種々なる苦悩や不如意事に耐え、仏道を成就せんが故に大誓願を発し、難行を行じ能い、難忍を忍び能い、仏地に至るまで休むことなく息むことなく、これが菩薩たちの行持である。
仏は菩薩が如何に法を行じ法に順うべきかを説かれた。菩薩は色陰・受陰・想陰・行陰・識陰という五受陰を観察する。これらは無常であり、苦であり、空であり、無我である。かく観じ、かく思うが如くであるが、しかし羅漢たちのように五受陰を厭離することはない。羅漢たちの修行はただ苦を滅し解脱を得んとし、三界を出離せんとするのみで、仏道を成就せんとは思わず、慈悲心薄く、衆生の生死の苦を顧みず、この世において衆生を利楽せんとは思わない。菩薩はかくの如くならず、菩薩たちの心量は広大で慈悲心大きく、衆生を悲愍し、無量劫の修行過程において無量の衆生を広く度し、然る後に仏果を成就せんと誓願を発する。
かくして菩薩は五受陰を捨て去って自らを滅度せしめず、生々世々に五受陰を保有し、この五陰をもって自利利他を行う。仏は菩薩が五受陰を用いるのみならず、善く五陰を利用し、善く持ち善く修すべきだと説かれた。羅漢たちは五陰を恐れ、五陰を持つことが自らに苦受をもたらすと考える。菩薩たちは五陰の実質が本来如来蔵であることを了知し、もはや五陰世間を恐れない。五陰は虚妄であり、如来蔵によって幻化されたものであるから、自ら五陰に顛倒想を生じず、五受陰に執着しなければ、苦受は生じないのである。
仏はさらに菩薩が如何に五受陰の苦・空・無常・無我を観察しながら、しかも五受陰を厭離しないかを解説された。仏は譬喩をもって菩薩は智慧を持つべきで五陰身を厭棄すべきでないと説明された。譬えば智慧ある人が毒物を販売し、これを包装して自らは食さないが如し。また譬えば火神を供養する人が火を供えた後、恭敬讃歎するも手で火に触れず、火に焼かれて苦悩を生ぜしめないが如し。菩薩もまたかくの如く、心は涅槃に向かい涅槃に順ずるも、涅槃を証取せず涅槃に入らない。一旦涅槃に入れば、再び五受陰をもって仏法を修学し、広く衆生を利し仏道を成就することができず、これにより菩提を退失し、損失甚大なるが故である。菩薩たちは涅槃を証取せずとも、心に煩悩なく、世間の煩悩に染まらず、かかる菩薩は最も敬重に値する。
仏は偈をもって諸大菩薩を讃えられた。まず菩薩は大智慧を有し、般若无生忍智と方広唯識の無生法忍智を具える。次に菩薩は無畏を有し、生死を畏れず、三界の生死の長河において無量の衆生を広く度す。さらに菩薩は慧眼・法眼を有し、智慧清浄である。かかる菩薩は初地以上の大菩薩であり、無生法忍慧を具え、諸仏の家に入り、仏の嫡子となり、仏の家業を代行し、衆生を度する方便善巧と勝妙の智慧を有し、その広大なる名声は声聞・縁覚の二乗人を超越する。
かかる菩薩は五受陰の苦・空・無常・無我性を如実に了知し、七識の妄心の生滅流転性を知り、自我の虚妄不実を知る。しかもかかわらず、滅度を忍びず、世間の衆生が長く生死に処し解脱を渇望するを見て、衆生の故に涅槃を証取せず、涅槃の無為の境界に住まない。それでは衆生に益なきが故である。慢について仏は菩薩摩訶薩が既に諸々の慢を離れ、心慈愍にして常に衆生を念ずると説かれた。常に世間を行き、乞食して過ごし、衆生をして皆利益を受ける法教を宣説する。
世尊は四十九年にわたり法を説き、多くの秘密語を説かれたが、衆生はその義を解せず、ただ表面の意味をもって理解し受け入れるため、義に依り語に依らざることを行い難い。以下は世尊の秘密語であり、衆生に知られざるものである。
(一)如来が声聞人に阿耨多羅三藐三菩提を得ると授記するは、説かれた如くならず。かく授記する所以は、声聞人も仏性を有し、成仏の性あるが故に成仏し得るからである。また如来が授記する声聞人は密行菩薩または将来菩薩道に転入して修行する声聞であり、暫時声聞解脱道を修し煩悩を断じ、大乗善根が成熟すれば菩薩の六波羅蜜万行を修し、般若唯識の智慧を修し、これにより将来仏道を成就する。
(二)世尊が繰り返し阿難に背痛を患うと告げるは、説かれた如くならず。仏は衆生を愍むが故に斯く説くも、真実に病痛あるにあらず。弟子たちが病に薬を用いず、修道を障碍するが故、仏自ら率先して薬を用い病を治す。弟子たちは仏も薬を用いるを見て、病ある時も慚愧心を生ぜず、薬を用いて治療する。
(三)仏が老衰し侍者を要すると説くは、説かれた如くならず。仏は永遠に老いず、永遠に衰えず、衆生の故に示現するのみ。
(四)如来が外道と論争するは、説かれた如くならず。仏には既に冤家対頭なく、故意に示現する。弟子たちが冤家対頭に遇う時、「仏すらかくの如し、況んや我らにおいてをや」と説き、再び違縁に遇う時も甚だ慚じることはない。
(五)毒刺が足を傷つけ果報を受けると示現するは、実事なし。仏は既に悪業果報なく、愚痴の衆生が業行を造作するを愍むが故に示現する。衆生は仏すら果報を受けるを見て、況んや我らにおいてをや、と業を造ることを敢えず。
(六)提婆達多が仏と怨対をなすは、説かれた如くならず。提婆達多は多世にわたり仏の善知識であり、処々に仏に対立することを示現し、以て仏徳を顕揚する。衆生は仏の德行を見て無比の恭敬を生じ、競って三宝に帰依し、仏に随って修学する。
(七)如来が乞食に空鉢を出すは、説かれた如くならず。仏の福徳は無量にして飲食を要せず、仮に飲食せんも自ら変化でき、自ら変ぜずとも十方世界の無量衆生が仏を供養する。仏がかく示現するは、飲食を乞い得ぬ薄福の弟子が心に仏と比較し、自ら卑下し慚愧憂悩せぬが故。
(八)女人が木盆を腹に置き仏を誹謗するは、説かれた如くならず。この女人は示現にて実事なし。仏は後世の弟子を慰めるが故に示現する。弟子たちが誹謗を受ける時、仏すら謗られるを思い、況んや我らにおいてをや、と道に退く心なからしむ。
(九)仏が三月間馬麦を食すは、説かれた如くならず。仏は五百匹の馬を度するが故に斯く示現する。その中で馬の頭目も願力をもって馬身に生じ、方便をもって五百匹の馬を度化し、仏もまたこれを輔佐して度化する。故に衆生は善知識と善縁を結ぶべく、悪道に報を受ける時、善知識は悪道に入り度化し、一つの善知識に遇うこと何と幸いなるか。仏の福徳は仮に何を食すとも最上味なり、況んや馬麦においてをや。仏が三月間にわたり馬麦を食すは、五百匹の馬を度化するのみならず、数百比丘をも度化する。故に我らが法を学ぶには如来の真実義に依り、如来の語の表義に依らず、法に依り人に依らず、了義経に依り不了義経に依らず、智に依り識に依らず、総じて四依四不依あり、努めて修学すべし。
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