衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年12月19日    土曜日     第1開示 合計2921開示

本事経第一巻

(三)原文:吾从世尊。闻如是语。苾刍当知。世间有情。一结断时。余一切结。皆亦随断。云何一结。是谓我慢。所以者何。诸所有结。细中粗品。一切皆以我慢为根。从我慢生。我慢所长。是故我慢一结断时。余一切结。皆亦随断。譬如世间楼观中心。普为楼观。众分依止。中心若坠。余亦随堕。如是我慢。诸结所依。我慢若断。余亦随灭。若诸苾刍。已断我慢。当知即是已断余结。若诸苾刍。已断余结。当知即是已尽苦边。已修正智。心善解脱。慧善解脱。无复后有。 

解釈:私は世尊からこのような教えを聞きました。比丘たちよ、知るべきです。世間の有情衆生は、一つの煩悩の結縛が断除されるとき、其余の一切の結縛もすべてそれに従って断除されます。これはどのような結縁でしょうか。それは我慢の結縛です。なぜそう言えるのでしょうか。すべての結縛は、細かいものであれ粗いものであれ、すべて我慢を根本とし、我慢から生じ、我慢によって成長するからです。それゆえ、我慢の結縛という一つが断除されるとき、其余の一切の結縛もすべてそれに従って断除されるのです。たとえば世間の楼閣の中心は、楼閣の周囲の部分がすべて依止して立っているものであり、中心の部分が倒壊すれば、楼閣の周囲もすべて倒壊します。 

我慢の結縛もまたこのように、他の諸々の結縛の依り所であり、我慢が断除されれば、他の諸々の結縛もそれに従って断除されます。もし比丘たちがすでに我慢の結縛を断除していれば、彼らがすでに其余の結縛を断除したことを知るべきです。もし比丘たちがすでに他の結縛を断除していれば、彼らがすでに苦の際辺に達し、すでに正智を修成し、心はよく解脱し、智慧もよく解脱し、もはや後有が無いことを知るべきです。 

原文:尔时世尊。重摄此义。而说颂曰。 如楼观中心众分所依止。中心若坠堕余分皆堕落。 如是我慢结众结之所依。我慢结断时诸结皆随灭。 苾刍断我慢余结悉随断。余结既已断即得尽苦边。 既得尽苦边名已修正智。心慧善解脱后有毕竟无。 

解釈:爾時に世尊は重ねてこの法義を摂して、頌を説かれました。たとえば楼閣の中心は楼閣の他の部分が依止するところであり、中心の部分がもし堕落すれば、其余の部分もすべて堕落します。我慢もまたこのように、他の結縛が依止するところであり、我慢の結縛が断除されるとき、他の結縛はみなそれに従って滅します。比丘がもし我慢の結縛を断除すれば、他の結縛もすべて断除されます。其余の結縛がすべて断じ尽くされたならば、苦の際辺に到達します。すでに苦の際辺に到達したならば、これをすでに正智を修出したと名づけ、心解脱・慧解脱の後には、三界の有はもはや決して無くなります。 

我慢は意根の煩悩心所であり、我見を根本とします。五蘊十八界を我と我所と見なすため、他の衆生の五蘊十八界と比較して、自分の五蘊十八界のほうがより殊勝で優れていると考え、そこで慢心を生じ、他の衆生を侮蔑するのです。他の煩悩心所は我慢の煩悩によって引き生じ、我慢を中心としますから、我慢の煩悩が断じ尽くされるとき、他の煩悩はすべて断じ尽くされて余りがなくなります。六識のすべての煩悩心所法も含めて、すべて意根の煩悩心所を根本としており、根本の煩悩が一たび断たれれば、枝葉の煩悩もそれに従って消滅し尽くします。枝葉の煩悩は断ちやすいのですが、根本の煩悩が断たれていないため、枝葉の煩悩はまた根本の煩悩に依って生じて成長するのであり、枝葉だけを断っても何の役にも立ちません。 

意根の我慢の煩悩を断じ尽くそうとするならば、意根の我見を断除し、意根の五蘊十八界を我と我所とする邪見 (mithyā-dṛṣṭi)を滅除しなければなりません。意根に我が無くなれば、次第に我慢も無くなり、衆生の煩悩はすべて断じ尽くされるでしょう。それゆえ、断我見 (ahaṃkāra-mamakāra-parityāga)は必ず意根に断たせることに重点を置かなければなりません。意根が我見を断たなければ、意識の枝葉の我見は意根の根本の我見に依ってまた生じ、永遠に断ち切れません。それゆえ、智慧ある人が仏法を学ぶならば、枝葉の上だけで心を用い力を尽くすのではなく、根本に重点を置くべきであり、根を断ってこそ初めて一切の枝葉を永遠に断つことができるのです。

——生如法師の開示
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