衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年12月18日    金曜日     第2 回の開示 合計2919回の開示

本事経第一巻(二)

原文:吾は世尊より、このような教えを聞いた。比丘よ、知るべきである。世間におけるすべての悪しき不善の法は、生起する時に、諸々の不善の品類、一切は皆、意を前導として起こる。なぜか。意が生起した後、悪しき不善の法は皆、その後から生じるからである。 

釈:私は世尊からこのような説法を聞いた。比丘たちよ、知るがよい。世の中のすべての悪い不善の法が生じる時、あらゆる不善の種類は、すべて意根が先導役となって現れる。なぜそう言えるのか。意根の心が生じた後、悪い不善の法はその後から生じてくるのだ。 世尊のこの言葉は特に重要で、直接的に意根の重要性と主導的立場を指摘し、すべての六識の身口意の善悪の業行が全て意根の導きによって生じ、意根の駆動による結果であることを示している。故に意根は一切の悪法不善心所を具足し、また一切の善法善心所をも具足する。意根にない悪心所の法については修める必要がなく、六識がこれを修めるのは余計である。なぜなら六識は意根に牽引されるもので、意根が汚れていれば六識は清浄になり得ず、六識が単独で清浄である理はない。意根こそ五陰身の主人であり、五陰身を主宰し、操作する者である。意根が天であり、意根をよく修めれば仏となり、修めなければ初果向にも至らず、何の法も証することはできず、ましてや明心見性して菩薩や仏となることは論外である。 

原文:その時、世尊は重ねてこの義をまとめ、偈を説いて言われた。 諸の不善なる法は生じるを因として苦を感ずる能く。皆、意を前導とし煩悩と共に生ず。 意は前導の法たり、意は尊く意の使う所。意に染汚あるが故に説あり行いあり。 苦はこれに随って生ず、輪が手に因りて転ずるが如し。 

釈:世尊は再びこの法義を説き、偈を述べられた。すべての不善法が因として生じ、招く苦果は全て意根が先導し煩悩と共に生じる。意根は一切法の先導者であり、一切法は意根を尊び、意根の指図による結果である。意根に染汚があるため、染汚の身口意行が生じ、苦果はこれに従って生じる。あたかも車輪が人の手によって回転するようなものである。 故に人を殺す瞋りの業は完全に意根の瞋心を先導として造られ、様々な貪欲は意根の貪りを先導として造られ、種々の愚痴の業は意根の愚痴を先導として造られる。すなわち意根はすべての悪心所法を具足し、縁に随って現行し、六識に悪業を造らせ、後に悪果報を受けるのである。 

原文:吾は世尊より、このような教えを聞いた。比丘よ、知るべきである。世間におけるすべての白き清浄なる善法は、生起する時に、善の品類、一切は皆、意を前導として起こる。なぜか。意が生起した後、白き清浄なる善法は皆、その後から生じる。その時、世尊は重ねてこの義をまとめ、偈を説いて言われた。 諸の浄善なる法は生じるを因として楽を感ずる能く。皆、意を前導とし善法と共に生ず。 意は前導の法たり、意は尊く意の使う所。意に清浄あるが故に説あり行いあり。 楽はこれに随って生ず、影が形に随いて転ずるが如し。

釈:私は世尊からこのような説法を聞いた。比丘たちよ、知るがよい。世の中のすべての清浄な善法が生じる時、あらゆる善の種類は全て意根が先導役となって現れる。なぜそう言えるのか。意根の心が生じた後、白く清浄な善法は全てその後から生じてくる。

その時、世尊は再びこの法義を説き、偈を述べられた。すべての清浄な善法が因として生じ、招く楽果は全て意根が先導し善法と共に生じる。意根は一切法の先導者であり、一切法は意根を尊び、意根の指図による結果である。意根に清浄性があるため、清浄の身口意行が生じ、楽果はこれに従って生じる。あたかも影が形体に随って動くようなものである。 

故に意根は一切の善法品類を具足し、一切の善心所法を具足し、縁に随って現行する。また意根には善も悪も、不善不悪もあり、一切の心所法を具足する。なぜなら意根は一切法の主人であり、一切法とは善法・悪法・不善不悪の法を含み、これらの法は全て意根の心の指図によって造り出される。意根の心は一切の心所有法を具足しているのである。

——生如法師の開示
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