衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年12月18日    金曜日     第1 回の開示 合計2918回の開示

本事経第一巻 (一)

原文:我は世尊より、このような言葉を聞きました。比丘たちよ、知るべきである。私は仏眼をもって、世間を遍く観察した。すべての業果は、まさに心意を縁として生じる。ある種類の有情は、心意に使われて、このような行いをなし、このような道を歩む。身壊れ命終わる時、重荷を捨てるが如く、諸々の悪趣に堕ち、地獄に生まれる。なぜならば、それらの有情の心意は染汚しているからである。これを因として、身壊れ命終わり、悪趣に堕ち、地獄に生ずるのである。 

釈:私は世尊からこのような教えを聞きました。比丘たちよ、あなた方は知るべきです。私は仏眼をもって世間のすべての業果を観察しましたが、それらはすべて心意を縁として生じるものです。ある種類の有情衆生は心意に駆り立てられ、このような行為をなし、このような道を歩みます。命終わって身体が滅びる時、重い荷を捨て去るように、さまざまな悪趣に堕ち、地獄に生まれます。なぜそうなるのか。それらの衆生の心意が染汚しているため、この染汚した心意を因として染汚した業を造り、命終わって悪趣に堕ち、地獄に生まれるのです。 

ここで言う心意とは第七識の意根を指します。意根が染汚しているため、心を起こして造る業はすべて染汚業となります。この染汚業によって命終わり地獄などの悪趣に堕ちるのです。衆生は意根に駆使されて業行を造ります。意根は身口意の行の動力であり主宰者です。意根が清浄ならすべて清浄となり、意根が染汚ならすべて染汚となります。したがって意根にはすべての無明が具わり、すべての煩悩が具わっています。修行の最終段階は必ず意根に帰着させなければ染汚を除去し清浄を得ることはできません。いかなる法を証得しようとも、いかなる三昧を得ようとも、必ず意根が証得しなければなりません。意根が証得しなければ、染汚は永遠に染汚のままで、決して清浄に変化することはないのです。 

原文:我は世尊より、このような言葉を聞きました。比丘たちよ、知るべきである。私は仏眼をもって、世間を遍く観察した。すべての業果は、まさに心意を縁として生じる。ある種類の有情は、心意に使われて、このような行いをなし、このような道を歩む。身壊れ命終わる時、重荷を棄てるが如く、諸々の善趣に昇り、天界に生まれる。なぜならば、それらの有情の心意は清浄であるからである。これを因として、身壊れ命終わり、善趣に昇り、天界に生ずるのである。 

釈:私は世尊からこのような教えを聞きました。比丘たちよ、あなた方は知るべきです。私は仏眼をもって世間のすべての業果を観察しましたが、それらはすべて心意を縁として生じるものです。ある種類の有情衆生は心意に導かれて、このような行為をなし、このような道を歩みます。命終わって身体が滅びる時、重い荷を投げ捨てるように、さまざまな善趣に昇り、天界に生まれます。なぜそうなるのか。それらの有情の心意が清浄であるため、この清浄な心意を因として、命終わって善趣に昇り、天界に生まれるのです。 

ここでの心意も依然として意根を指します。意根は主導識であり、諸法の主人です。いかにして諸法を造作するかは意根が主導し駆動します。意根が清浄であれば、造作する業行も清浄となり、この清浄な業行によって清浄な福報を受けるのです。したがって意根はすべての清浄な善法を具足することができ、この清浄な善法によって仏道を成就します。意根はすべての心所法を具足し、善悪の心所法をすべて具えていますが、悪い心所法はすべて断じ尽くすことができ、善い心所法はすべて生起させることができます。意根が悪であればすべてが悪となり、意根が善であればすべてが善となります。修行の最終段階は必ず意根に帰着させなければならず、そうでなければ中途で挫折し、これまでの努力が無駄になり、善法を成就することはできないのです。

——生如法師の開示
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