(八)原文:阿難よ。彼が我を見るとは、受をもって我とすることである。彼は正しからざるなり。阿難よ。彼が我を見るとは、受は我にあらずと言いながら、我こそ受なりとすることである。まさに彼に告げるべきなり、如来は三受を説きたまう。苦受・楽受・不苦不楽受なり。もし楽受が我であるならば、楽受の滅する時、二つの我あることとなる。これは過失なり。もし苦受が我であるならば、苦受の滅する時、二つの我あることとなる。これは過失なり。もし不苦不楽受が我であるならば、不苦不楽受の滅する時、二つの我あることとなる。これは過失なり。
釈:阿難よ、心に我ありと見る者は、受を我とすることは正しからず。彼らの見解は誤りなり。彼らに説くべきは、如来の説く三受(苦受・楽受・不苦不楽受)の理なり。もし楽受を我とすれば、その滅時に二我生ずる矛盾あり。苦受を我とすれば同様の過ち生じ、不苦不楽受を我とすればまた然り。これら皆誤謬なり。
原文:阿難よ。彼が我を見るとは、受は我にあらずと言いながら、我こそ受なりとすることは正しからず。阿難よ。我を計る者が『受は我にあらず、我も受にあらず。受法こそ我なり』と説くならば、彼に告げるべきなり『一切に受なし。いずくんぞ受法あると言うや。汝は受法なるか』と。答えん『然らず』と。故に阿難よ、我を計る者の『受は我にあらず、我も受にあらず。受法こそ我なり』とは正しからず。
釈:受を我と執着する者は根本的に誤れる見解を抱く。一切の法に受なき理を明示し、彼らの論理矛盾を指摘すべし。問答を通じてその誤りを顕現せしむるは、正見を開示する方便なり。
原文:阿難よ。我を計る者が『受は我にあらず、我も受にあらず。受法も我にあらず。ただ愛こそ我なり』と言うならば、彼に告げるべきなり『一切に受なきに、いずくんぞ愛あるや。汝は愛なるか』と。答えん『然らず』と。故に阿難よ、我を計る者の『愛こそ我なり』とは正しからず。阿難よ、これこそが正説なり、これこそが応理なり、これこそが究極なり、これこそが法演なり、これこそが智観なり、これこそが衆生済度なり。
釈:愛執をもって我と錯覚する者に対し、縁起の理を以てその謬見を破す。一切の現象は相依って存在し、独立した実体なきことを諭すは、衆生を迷妄より解脱せしむる最上の智慧なり。この如く説くことこそ、真実の教えに適う所以なり。
0
+1