(七)原文:阿難よ。我を計る者において、幾つの我見が等しくあるか。名色と受とをともに計って我と為す。ある人は言う。受は我に非ず、我は受なりと。あるいは言う。受は我に非ず、我も受に非ず、受法こそ我なりと。あるいは言う。受は我に非ず、我も受に非ず、受法も我に非ず、ただ愛こそ我なりと。阿難よ。彼の我を見る者が受を我と説くならば、当に彼に告げるべし。如来の説く三受とは、楽受・苦受・不苦不楽受なり。楽受ある時は、苦受も不苦不楽受も無し。苦受ある時は、楽受も不苦不楽受も無し。不苦不楽受ある時は、苦受も楽受も無し。
釈:阿難よ、我の存在を計着する者には、どのような我見があるか。名色五蘊と受覚の全てを我と見做している。ある者は「受覚は我ではないが、我は受である」と言い、またある者は「受覚は我ではなく、私も受ではないが、受という法こそが私である」と言い、さらに「受覚は我ではなく、私も受ではなく、能受所受の法も我ではないが、愛こそが私である」と言う。阿難よ、我の存在を見出す者が受覚を我と説くならば、彼らに告げるべきである。如来は三種の受を説かれた、楽受・苦受・不苦不楽受である。楽受が生じている時には苦受と不苦不楽受は存在せず、苦受が生じている時には楽受と不苦不楽受は存在せず、不苦不楽受が生じている時には楽受と苦受は存在しない。
「我を計着する」とは、凡夫が常に五蘊十八界を恒常的で主宰的な法と誤認することを指す。これは世俗法であって、非世俗的な第八識如来蔵を指すものではない。衆生は無始より第八識の存在を知らず、七識さえも知らず、真偽の識をも弁えていない。故に文中の「我」を第八識と解するのは誤りであり、事理と事実に反する。凡夫は決して名色五蘊を第八識と見做さず、受を第八識と見做すこともない。五蘊や受が第八識であるか否かに拘わらず、そもそも第八識には名色も受も存在しない。何を以て受を第八識とするのか、或いは否とするのか、いずれも正理に背くのである。
原文:その所以は何ぞや。阿難よ。楽触の縁によりて楽受が生じ、楽触が滅すれば受もまた滅す。阿難よ。苦触の縁によりて苦受が生じ、苦触が滅すれば受もまた滅す。不苦不楽触の縁によりて不苦不楽受が生じ、不苦不楽触が滅すれば受もまた滅す。阿難よ。二本の木が擦れ合えば火が生ずるが、各々別々に置けば火は生ぜざるが如し。これもまた然り。楽触の縁によりて楽受が生じ、楽触が滅すれば受もともに滅す。苦触の縁によりて苦受が生じ、苦触が滅すれば受もともに滅す。不苦不楽触の縁によりて不苦不楽受が生じ、不苦不楽触が滅すれば受もともに滅す。阿難よ。この三受は有為無常なり。因縁より生じ、尽き滅する法、朽ち壊れる法なり。彼らは我の所有に非ず、我も彼らの所有に非ず。正しい智慧をもって如実に観るべし。
釈:このように説かれる所以は、阿難よ、楽触が縁となって楽受が生じ、楽触が滅すれば楽受も滅するからである。苦触が縁となって苦受が生じ、苦触が滅すれば苦受も滅する。不苦不楽触が縁となって不苦不楽受が生じ、その縁が滅すれば受も滅する。阿難よ、譬えば二本の木が擦れ合えば火が生じるが、離して置けば火は生じないように、受もまた同様である。
楽触の縁により楽受が生じ、その縁が滅すれば受も滅する。苦触の縁により苦受が生じ、縁が滅すれば受も滅する。不苦不楽触の縁により受が生じ、縁が滅すれば受も滅する。阿難よ、これら三種の受は有為の無常法であり、因縁によって生じ、尽き滅する性質を持ち、朽ち果てる法である。これらの法は我のものでなく、私もそれらのものではない。正しい智慧をもってありのままに観察すべきである。
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