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日常開示

2020年12月10日    木曜日     第2 回の開示 合計2891回の開示

長阿含大縁方便経第九

(七)原文:阿難よ。我を計る者において、幾つの我見を整えるか。名色と受をともに計って我と為す。ある人は言う『受は我に非ず。我は受なり』と。あるいは言う『受は我に非ず。我も受に非ず。受法こそ我なり』と。あるいは言う『受は我に非ず。我も受に非ず。受法も我に非ず。ただ愛こそ我なり』と。阿難よ。彼ら我を見る者で、受を我と説く者には、当に彼らに告げるべし『如来は三受を説きたまう。楽受・苦受・不苦不楽受なり』と。楽受ある時には、苦受も不苦不楽受も無し。苦受ある時には、楽受も不苦不楽受も無し。不苦不楽受ある時には、苦受も楽受も無し。

釈:阿難よ、我を計着する者には、いかなる我見があるか。名色五陰と受覚の全てを我と見做す。ある者は「受覚は我に非ず、されど我は受なり」と言い、またある者は「受覚は我に非ず、我も受に非ず、されど受という法こそ我なり」と言い、さらに「受覚は我に非ず、我も受に非ず、受法も我に非ず、ただ愛こそ我なり」と言う。阿難よ、我を見ると称する者で受覚を我とする者には、如来が説く三受(楽受・苦受・不苦不楽受)を以て諭すべし。楽受が生じる時には他の二受は存在せず、苦受が生じる時も同様、各受は相互に排他的であることを明示せよ。

我を計着するとは、凡夫が五蘊十八界を恒常なる主宰的法と誤認することを指す。これは世俗法に属し、非世俗の第八識如来蔵を指すものではない。衆生は無始より第八識を知らず、七識さえも弁えず、真偽の識を識別せず、文中の「我」を第八識と説くは誤謬なり。凡夫は名色五陰を受容体と見做すことも、受を第八識と見做すこともない。そもそも第八識には名色も受も存在せず、受を以て第八識の有無を論ずるは正理に背く。

原文:所以然る所以は、阿難よ。楽触の縁によりて楽受生ず。若し楽触滅すれば受も亦滅す。阿難よ。苦触の縁によりて苦受生ず。若し苦触滅すれば受も亦滅す。不苦不楽触の縁により、不苦不楽受生ず。若し不苦不楽触滅すれば受も亦滅す。阿難よ。両木相擦れば則ち火生ず。各々別処に置けば則ち火無し。此れ亦如是なり。楽触の縁によりて楽受生ず。楽触滅すれば受も倶に滅す。苦触の縁によりて苦受生ず。苦触滅すれば受も倶に滅す。不苦不楽触の縁により不苦不楽受生ず。不苦不楽触滅すれば受も倶に滅す。阿難よ。此の三受は有為無常、因縁より生じ、尽法滅法、朽ち壞する法なり。彼らは我に非ず、我も彼らに非ず。正智を以て如実に観ずべし。

釈:この所以を説くに、阿難よ、楽触が縁となって楽受が生じ、楽触が滅すれば受も滅する。苦触・不苦不楽触についても同様である。例えるなら二本の木が擦れ合えば火が生じ、離せば火が消える如く、受も触縁の存続に依存する。三受は全て有為の無常法であり、因縁生起・滅尽する腐朽法である。これらは我に属さず、我もこれらに属さない。正しい智慧をもって実相を観察すべきである。

——生如法師の開示
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