(六)原文:阿難よ。それ故に名色は識を縁じ、識は名色を縁じ、名色は六入を縁じ、六入は触を縁じ、触は受を縁じ、受は愛を縁じ、愛は取を縁じ、取は有を縁じ、有は生を縁じ、生は老死憂苦悲悩を縁ず。大苦陰集なり。阿難よ。これが正しい言葉であり、これが応じるべきものであり、これが限界であり、これが説法であり、これが智観であり、これが衆生のためである。阿難よ。諸比丘はこの法において、如実に正観し、無漏の心解脱を得る。阿難よ。この比丘は慧解脱と名付くべきである。
釈:阿難よ、それゆえに名色は阿頼耶識を縁じて存在し、阿頼耶識は名色を縁じて住処を得る。名色あれば六入を生じ、六入あれば触を生じ、触あれば受を生じ、受あれば愛を生じ、愛あれば取を生じ、取あれば有を生じ、有あれば生を生じ、生あれば老病死憂悲苦悩、純粋なる大苦陰の集積を招く。これこそが正語であり論義であり、最も修習すべき法義であり、究極の法門であり、真実の説法であり、智慧ある観察であり、衆生を救う法である。阿難よ、諸比丘がこの法において如実に正しく観察し、煩悩漏を断尽して心解脱を得る。阿難よ、このように正観する比丘を慧解脱の阿羅漢と名付ける。
慧解脱の阿羅漢はその解脱の智慧が禅定の修行に勝り、禅定は初禅に至るのみで二禅以上の深甚な禅定を具えず、命終時に主として解脱智慧によって三界を離れ涅槃に入る。解脱智慧とは五蘊の苦・空・無常・無我を徹底的に証得し、我執などの貪瞋痴煩悩を断尽し、一念の無明が滅尽して五蘊が即滅することを指す。単に智慧のみで禅定なきを指すのではなく、禅定が深くなくとも解脱が主となり、禅定に依らずして解脱することを意味する。初禅定なき者は煩悩を断じ無漏の心を得ることができず、解脱もまた得られない。
原文:かくの如く解脱した比丘は、如来が終滅することをも知り、如来が終滅せざるをも知り、如来が終滅すると終滅せざるとをも知り、如来が終滅せず終滅せざるをも知る。何故か。阿難よ。これが正しい言葉であり、これが応じるべきものであり、これが限界であり、これが説法であり、これが智観であり、これが衆生のためである。かくの如く尽きず知りて、無漏の心解脱を得た比丘は、このような知見を知らず見ず。
釈:このように解脱した比丘は、如来が涅槃に入ることも知り、涅槃に入らぬことも知り、涅槃に入りつつ入らぬことも知り、涅槃に入らず入らぬことも知る。何故かと言えば、阿難よ、このように説くことが正語であり、最も適切であり、究極的であり、法を説くことであり、智慧ある観察であり、衆生を救うことだからである。かくの如く如来の涅槃を尽きず知り、煩悩漏尽して心解脱を得た比丘は、他の比丘たちがこのような知見を知らず見ないのである。
0
+1