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日常開示

2020年12月09日    水曜日     第2 回の開示 合計2887回の開示

長阿含大縁方便経第九

(五)原文:阿難よ、識によって名色がある。これはどのような意味であるか。もし識が母胎に入らなければ、名色はあるか。答えていう。ない、と。もし識が胎に入って出なければ、名色はあるか。答えていう。ない、と。もし識が胎を出て、嬰児の身が壊れれば、名色は増長を得るか。答えていう。ない、と。阿難よ、もし識がなければ、名色はあるか。答えていう。ない、と。阿難よ、私はこの縁によって、名色が識によることを知る。識によって名色がある。私が説くところの義はここにある。

釈:阿難よ、識(アラヤ識)によって名色があるとは、どのような意味か。もしアラヤ識が母胎に入らなければ、名色は存在するか。阿難は答えて「存在しない」と。もしアラヤ識が胎に入りながら母胎を出なければ、名色はあるか。阿難は「ない」と。仏は説く「もしアラヤ識が母胎を出て、嬰児の色身が壊れれば、名色は増長できるか」。阿難は「増長できない」と。阿難よ、もしアラヤ識がなければ名色はあるか。阿難は「ない」と。阿難よ、私はこの縁故により、名色がアラヤ識によって生じることを知る。アラヤ識によって名色がある。私の説くところはこの義である。

これは十因縁の法義であり、名色が生じる最も直接的な因縁がアラヤ識であることを明らかにする。六識は名色生起の助縁に過ぎず、六識が清浄となり業行を造らなくなれば、アラヤ識は名色を生じさせず、生死は断たれる。アラヤ識は入胎から出胎まで、生命の各段階で名色に随伴し、名色を不断に増長・変異させる。一旦名色の縁が失われれば、アラヤ識はもはや名色を増長し随伴することはできない。十因縁の「識」を六識と誤解する者があるが、入胎時には六識は消滅して入胎できず、入胎後も長期にわたり六識は生起せず、眼識は出胎後に初めて生じる。故に入胎・住胎するのは六識ではなくアラヤ識である。仏は十因縁において、名色生起の根本因がアラヤ識であることを直接指摘された。アラヤ識は名色の依り所であり源なのである。

原文:阿難よ、名色によって識がある。これはどのような意味であるか。もし識が名色に住しなければ、識には住処がない。もし住処がなければ、生老病死・憂悲苦悩があろうか。答えていう。ない、と。阿難よ、もし名色がなければ、識はあるか。答えていう。ない、と。阿難よ、私はこの縁によって、識が名色によることを知る。名色によって識がある。私が説くところの義はここにある。

釈:阿難よ、名色によってアラヤ識があるとは、どのような意味か。もしアラヤ識が名色に住しなければ、アラヤ識には住処がない。住処がなければ、生老病死・憂悲苦悩は存在するか。阿難は「ない」と。阿難よ、名色がなければアラヤ識はあるか。阿難は「ない」と。阿難よ、私はこの縁故により、アラヤ識が名色によって住処を得ることを知る。名色によってアラヤ識の顕現がある。私の説くところはこの義である。

「名色によって識がある」の「ある」は生起を意味せず、顕現を指す。アラヤ識は不生不滅であり、名色によって生じるものではなく、名色もまた何らかの法を生じえず、ましてアラヤ識を生じることはない。名色がなければアラヤ識は依り所を失い、アラヤ識は名色に依って住することにより初めてその作用を顕現させる。仏は後に「もしアラヤ識が名色に住さなければ、住処がなくなり、住処がなければ名色がなく、名色がなければ生老病死がない」と解説される。十因縁の法義は甚深で理解し難いが、正しく解すべきである。

——生如法師の開示
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