衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年12月07日    月曜日     第2 回の開示 合計2878回の開示

五蘊無我における「我」とは何か

五蘊は我なり、五蘊は我に非ず、この我とは何を指すのか。凡夫は五蘊が我であると考え、聖賢は五蘊が我ではないと考える。この我とは結局何を指すのか。

ある者はこの我が第八識如来蔵を指すと言うが、この説は正しいのであろうか。もし正しいとするならば、凡夫は我を持つが故に、五蘊が第八識如来蔵であると考えることになる。果たして凡夫にこのような認識や思想観念が存在するだろうか。決して存在しない。もしこのような思想観念があれば、全ての者が凡夫ではなくなり、直接三賢位を越えて聖位の地上菩薩となるはずである。なぜなら地上菩薩のみが、五蘊十八界のあらゆる面が全て如来蔵性であり、実質的に如来蔵そのものであることを観察する能力を有し、一分あるいは多分の一真法界性を証得し、法界全体が一真法界であることを証得するからである。それがすなわち仏である。

故に凡夫が五蘊こそ第八識如来蔵であるという智慧の認識を持つことは不可能である。実際、凡夫衆生にはこのような思想観念や認識は存在せず、仏法を学ぶ凡夫衆生でさえ、大多数は第八識如来蔵の存在を知らない。知っている者も多くは第八識如来蔵の真実性・虚妄性を認めず、ましてや証得などしていないため、五蘊を第八識如来蔵と見做すことはない。特に三悪道の衆生は更に五蘊と第八識を結びつけることができず、しかし三悪道の衆生は全て我見を持ち、自らの五陰身を我及び我の所有物として守護する。特に畜生道は愚痴の極みにあり、頭の中に何の概念も持たず、ただ五陰身が我であると知りながらも「我」という概念すら持たない。しかし畜生たちが自我を守護することを妨げるものはない。なぜなら意根は言語文字や思惟を伴わずに五陰身という我を知っており、それ以外は何も知らないからである。

このような状況において、凡夫衆生は四聖諦の法を学び五蘊を観行する必要など全くなく、五蘊こそ第八識如来蔵であるという絶対真理を否定し、「五蘊は第八識如来蔵に非ず」という誤った結論を導き出す。この結論は地上菩薩の唯識における甚深なる大智慧を直接否定するものであり、唯識の正理に背き、華厳経が説く一真法界の正理にも反する。故に「五蘊は第八識如来蔵に非ず」という結論を証果として導くことは、証果を得ていないこと、また如実の観行を行わなかったこと、真実の修行過程を経ていないことを示す。如実の修行過程を経た者は、決してこのような結論を導くことはない。これは我見を断つ観行における邪道であり、我見を断つ正果を得られず、法眼浄を得ることもできず、解脱も得られない。

——生如法師の開示
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