衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年12月01日    土曜日     第3開示 合計1059開示

一切法を証明する過程によってこそ、各人の真の智慧が示されるのである

一切の法を証明する過程には、必ず意根が自ら参与しなければなりません。意根が確切な結果を知ろうとするなら、必ず事実の真相を知らなければならず、意根が事実の真相を知ろうとするなら、必ず証拠が必要です。この証拠の獲得は辛苦な過程であり、意識が辛苦して広くかつ深細に証拠を収集しなければならないだけでなく、意根も深い疑情を起こし、ともに証拠を探し、ともに証明し、さらに意識が収集してきた証拠に対して確認を行わなければなりません。この過程は決して容易なものではなく、意識のように軽々しくある法を認めるなどということはできません。神様は反復反復の思想闘争を行い、反復反復の深細な思量 (manasikāra/manana) と考量を行い、無始劫以来の慣性的な認知と正しくない観念を変えなければならないのです。

意根がそれを見出したなら、従前の所知を覆し、そこで意根は触動と震動を受け、身心の覚受が甚だしいものとなります。この過程がなければ、実修実証を語ることはできません。じょう (samādhi) を離れては、この過程は根本的に完成できず、実修実証を語ることもできません。それは単なる高談闊論にすぎないのです。

一切の法の結果については、佛陀はほとんどすべて答えを示しています。たとえば夢のよう、幻のよう、水中の月のよう、鏡中の像のよう、陽炎のようなどというのは、すべて佛陀が示された答えです。答えを知っていることに何の珍らしさがありましょうか。証明の過程こそが、一人ひとりの真の智慧を示すのです。問われて三たび知らずという解慧ならば、少しでも聡明な人なら誰でも得ることができ、何ら珍らしくはありません。

悟っていない凡夫の中には、聡明で理解力が強く、知識が広博で、文章も口才も優れているために、時間をかければ、一切の法が夢のよう幻のようであることについて数万字もの論述を書き上げる人がいます。しかし、これらの論述のどこに観行 (vipaśyanā-caryā) の痕跡があり、どこに実証の痕跡があり、どこに証明の過程があるのでしょうか。それにもかかわらず、こうしたものをあえて好む人もおり、昼夜を分かたず暗誦しています。学富五車であったとしても、何の役に立つのでしょうか。

——生如法師の開示
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