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日常開示

2020年12月06日    日曜日     第2 回の開示 合計2873回の開示

観世音菩薩の耳根円通法門解説

(二)所入既に寂滅。識心が内に向かって還流し、音声の起こる所に至るが、その起こる所には響きもなく、喧噪もなく、寂静である。一つは理上の如来蔵が寂静であること、二つは禅定の中の境界が寂静であり、声塵を離れていること。これは理と事を備え、理と事が円融する。

動静の二相は明らかに生じない。一つは理を指し、三摩地に入った後、如来蔵を観察すれば、本来動静の二相を具えず、動にも静にも属さず、動静の二つの声塵相がなく、故に寂静である。二つは事——禅定を指し、この禅定の境界の中に動静の二相がなく、動相も知らず、静相も知らず、これが二禅以上の定境に入った状態である。五識がなく、耳識が現起しないため、動と静の二種の声塵を聞くことがない。動静が明らかに生じないと言うが、実際には動静の二相が存在するが、ただ耳識が弁別せず、意識も単独では弁別できないため、二禅以上の定境では動静の二相が明らかに生じないと言うのである。

かくの如く次第に増進し、聞く所の聞が尽きる。一つは理上の智慧境界が漸次深まり、二つは事上の禅定境界が次第に深まることを指す。理上の智慧境界が進んだ後、声塵を聞く能き識心の我が如来蔵性であり、真実の識心の我能く声塵を聞くものではないことを明らかにする。同時に、聞かれる所の声塵も如来蔵性であり、如来蔵の変現する所で、真実の声塵ではないことを悟る。かくして内心に能(識心)所(声塵)の掛礙がなくなり、能聞所聞の実感を滅し、内心が空浄となる。事上の禅定境界が進んだ後、能聞の耳識が滅し、所聞の声塵が滅して、甚深なる二禅以上の禅定境界に入る。

尽聞して住せず。この境地に至っても、理上と事修の両面において能聞と所聞を既に滅したが、観世音菩薩の智慧境界と禅定境界はここに止まらず、留まって進まないことはない。深く修行を進め、更に深い三摩地に入る。

覚ぶる所の覚が空ず。二禅以上では既に五識が存在しないため、五塵境界を知ることができない。しかし意識心は存在し、意識も単独では五塵境界を弁別できず、ただ定境の法塵に相応する。この時の意識心は極めて微細で、六塵境界の存在をほとんど感じない。しかし出定後、意識は先に二禅に入ったことを知り、ある種の禅定に入ったことを覚え、心に喜びを生じ、内心は愉悦し、精神が充実する。二禅以上の境界に意識心が存在する以上、意識は即ち覚心である。この時、理上ではこの能覚の意識心が真実ではなく、実法がなく、如来蔵の変現する所で如来蔵性であることを認識する。また覚ぶる所の禅定境界と心喜も真実性がなく、如来蔵性であり、如来蔵の変現する所である。

事上では、禅定境界は二禅から四禅以上の境界に昇進し、捨念清浄に達し、意識心に微細な覚がなく、意識心の能覚をも空じ、覚ぶる所の禅定境界も空じて、四空定に入ることができる。

以上に述べたのは粗略な理解であり、実修を経ず、実証経験がないため、学人の実修を実際に指導することはできず、多くの方々の祈請に応えるための概略的な参考資料としてのみ供する。

——生如法師の開示
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