衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年12月06日    日曜日     第1 回の開示 合計2872回の開示

観世音菩薩の耳根円通法門釈義

(一)原文:その時、観世音菩薩は即座に座より立ち上がり、仏足を頂礼して仏に申し上げた。「世尊よ、私が昔、数え切れないガンジス川の砂の数ほどの劫を経た時を思い出します。その時に仏が世に現れ、名を観世音と申しました。私はその仏の御許で菩提心を発し、その仏が私に教えられました。『聞き、考え、修めることによって三摩地に入りなさい』と。初めに聞くことにおいて、流れに入って対象を忘れました。入ったところは既に寂滅し、動静二つの相は明らかに生じることがありません。このように次第に増進し、聞くべきものを尽くし、尽きても留まらず、覚るべきものが空であることを悟りました。空の覚りは極めて円満し、空じるべきものも滅しました。生滅が既に滅びると、寂滅が眼前に現れ、突然に世間と出世間を超越し、十方世界が円明となり、二つの殊勝を得ました。一つは十方諸仏の本妙覚心と上合し、仏如来と同じ慈力を具えること。二つは十方一切の六道衆生と下合し、すべての衆生と同じ悲仰の心を具えることです。」 

釈:ガンジス川の砂の劫とは無量劫、数え切れない大劫を指し、観世音菩薩が正果を成じたのは既に無量の大劫を経たことを示しています。つまり古仏が再来し、慈航を倒駕したのです。 

「聞・思・修によって三摩地に入る」とは、三摩地が一方では智慧の境地、他方では禅定の境地を指し、両者が結合して大乗の地上菩薩の果位、少なくとも四地菩薩の境地を成します。智慧の境地とは如来蔵を証得し、心を明らかにして本性を見ることを意味し、禅定の境地とは四禅八定を達成し、初禅・二禅以上、最良は四禅以上の状態を指します。 智慧の境地は理の悟入、禅定の境地は事の悟入であり、行門とも称され、漸修に属します。この点は決して偽りがあってはならず、聞・思・修には理による悟入と修行、行による悟入と事修の二つの要素が存在します。両者が不可欠で密接に連携して初めて高い菩薩の果位に至り、深い三摩地に入ることができるのです。 

「初めに聞くことにおいて流れに入って対象を忘れる」という理の悟入は依然として説明しやすい部分です。仏法を聞き考えることによって聖道の流れに入り、諸法の実相を証得します。「対象を忘れる」とは、心の中で五蘊十八界六塵の境界が滅失し、これら世俗の法を真実と認めなくなることです。行による悟入と事修の部分には具体的な禅定の修養が必須であり、実際に禅定を修めた経験が必要です。この禅定とは、一つの音声を聞くことによって定に入ることを指します。音声を聞き始めた瞬間、音声の流れに沿って反転し、外界の音声相が消失します。この部分も理の悟入を離れることはできず、音声がどこから流れ出るかを反聞してその源を探ります。

「流れに入って対象を忘れる」とは聖道の流れに入り、音声の所在を忘れることです。音声は全て如来蔵から生じるものであり、如来蔵を証得すれば次第に音声が全て如来蔵性であることを知り、音声を実体あるものと認めなくなります。これが理の悟入であり、事修と相俟って、耳根が色塵に攀縁する際、心念が専一になると禅定が生起し、耳識と意識が徐々に音声の起こる源へ回帰します。外に向かって聞くことから内に向かって聞くことに転じ、外界の声塵は次第に聞こえなくなっていくのです。

——生如法師の開示
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