外火界は来るところなく、去る所なし
外火界は、共業の衆生の如来蔵が共同で保持するものであり、単独の個人の如来蔵では外火界を保持できず、自らの身体内の火界のみを保持します。昔は現代のようなマッチやライターがなく、凸透镜を使って太陽光を集め、蒿草や牛糞屑、兜羅綿に点火し、それを元に他の物を燃やして炊事や焼却を行いました。
この火が燃え広がると、草木や山林・集落を焼き尽くします。元々火種がなかった所で発生した火が、山野を焼き払い、高い樹木も広大な森林も破壊します。さらに拡大すれば全世界を焼失させ得ます。この火はどこから来たのでしょうか。まず如来蔵由来説は措き、空の観点から述べれば、もし太陽を源とするなら、凸透镜を用いずに太陽光を浴び続けても発火しません。太陽に火の性質があれば森林を焼くだけでなく、衆生の身体も焼き焦がすはずで、生命は瞬時に絶えるため、火は太陽由来ではあり得ません。
虚空から来るのでしょうか。それも不可能です。虚空に火があれば万物は焼失し、世は空無となるでしょう。太陽・虚空・人手・鏡・草のいずれにも由来せず、来歴がありません。まず小乗の解釈を示せば、火界は来歴なく発生し、消滅時にも行先がありません。行先があれば、その場所は即座に燃え上がるはずです。火界とは燃焼性と熱性そのものであり、来処も去処もなく、発生時にも消滅時にも実体を捉えられません。その本質は全て如来蔵の性質、如来蔵の機能に帰します。よって万法は究極的に、私たちの真実心に帰一するほか、真実たる法は存在しないのです。
0
+1