衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年10月01日    月曜日     第2開示 合計858開示

念話頭・看話頭・参話頭の違い

話頭(わとう)を見ることは定力を修めることであり、心を一つの言葉の手前に置くことで、文字と言語を現れさせないようにします。定力が不足している時には、文字と言語が現れ、心の中で音声が絶え間なく続きます。これが念話頭(ねんわとう)です。したがって、定力がないために心の中で同じ言葉を繰り返し、定力がある時には心の中の音声と言語の相(そう)が消えるのです。

話頭を見る定力が十分に備わった時、話頭を参究(さんぐ)することができます。すなわち、この言葉の意味を参究するのであり、文字と言語はほとんど現れず、情思意解(じょうしいげ)に陥ることがありません。そうして初めて真の証悟(しょうご)を得ることができ、解悟(げご)に留まることはありません。定力が不足している者が悟ろうとするならば、解悟にしか至れません。話頭とは真如(しんにょ)を指し示す一つの言葉であり、その中に秘密を含んでいます。それによって人に疑情(ぎじょう)を生じさせ、疑った後に参究することで、その中の秘密を解き明かし、迷いを破って悟りを開くことができるのです。いわゆる話頭とは、心がこの言葉の手前に住し、この言葉の一字たりとも心の中に現れてはならないものの、心の奥では言葉全体の意味が懸けられて念じられており、意根(いこん)が参究という事柄を自らが解決すべき問題として捉え、捨て去ろうとせず、密かに意識と共に心を用いることです。時機が熟した時に、秘密を解き明かすことができるのです。公案(こうあん)を参究することと話頭を参究することは、各人の習慣や好みに応じて選ぶことができ、どちらも人を迷いから悟りへと導くことができます。

禅を参究することは謎解きではありません。まず第一に、深い仏法の基礎理論の素養が必要であり、禅を参究する目的、参究する内容と目標、参究の方法、どこから手をつけるのかを知る必要があります。理論的な基礎を固め、定力も十分に備わって初めて、話頭または公案を参究することができます。公案を参究する際には、公案とは何か、公案の内容と目標は何か、公案が私たちに何を指し示しているのか、私たちが何を得られるのかを知る必要があります。また、公案の肝心な点がどこにあるのか、公案がなぜそのようなものなのか、そしてそれは何を説明しているのかを知る必要があります。私たちの定力、福德(ふくとく)、因縁(いんねん)がすべて具わった時、参究している内容に対して疑情が生じ、疑いを繰り返すうちに、時機が熟せば真心である第八識(だいはっしき)を悟ることができ、これが開悟(かいご)です。

話頭を見ることは定力を修めることであり、話頭を参究することは話頭の内包を参究することです。定力が具わって初めて疑情が生じ、疑情があって初めて参究することができ、参究した後に疑情を解決して参究の目標である如来蔵(にょらいぞう)を証得(しょうとく)します。これが開悟であり、その時には話頭に含まれているすべての秘密を知ることができます。話頭を参究するのが適しているか、公案を参究するのが適しているかは、人によって異なります。一般的に言えば、公案は内容が多く、指し示す方向が比較的明確で、方法は簡潔明快、考え方は活発であり、取り組みやすいものです。話頭または公案を参究するには、自分が興味を持ち、疑情が比較的強く、取っ掛かりが見つかりそうなものを選んで参究するのが早道です。その前に、自身の菩薩(ぼさつ)の六度(ろくど)修行の程度を点検し、菩薩の条件が具わっているかどうかを確認し、その後できる限り六度の条件を整える必要があります。六度がまだ修められていない時は、焦って禅を参究すべきではありません。修行は一歩一歩階段を上るように進むものであり、各段階で着実に基礎を固める必要があります。基礎が固まれば、その後の修行は流れに舟を推すように順調に進み、障害はなくなります。

——生如法師の開示
前へ前へ

煩悩と病は心の幻化です

次へ 次へ

八地菩薩の境地

ページトップへ戻る