衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年11月23日    月曜日     第3 回の開示 合計2824回の開示

仏法と世間法の違い

仏法は衆生を解脱に導く法であり、衆生を生死から解脱させることができる。世俗法は仏道外の種々の法を含み、儒家や道家の法は衆生を解脱に導くことができず、生死からの解脱をもたらせない。仏法のみが世間の幻化空を説き、実相の空を説く。空を証得してこそ解脱が可能となる。仏道外の法は多く「有」を説き、仮に空を説くとしても一部の空、浅次元の空に留まり、世間的な空さえ究竟せず、まして出世間の実相空には及ばない。空こそが解脱であり、有は即ち繋縛である。仏法は解脱の無所求なる空法であり、外道の法は繋縛の有法、有所求の法である。

仏法は仏法であり、外道法は外道である。思想観念が異なる。もし同じならば外道法は外道法ではなく、仏法と呼ばれるはずである。もし老子が悟りを開いていたなら、伝える法も衆生を解脱させ得たはずで、仏がわざわざ人間界に来る必要はなく、余計な行為となったであろう。外道法と仏法の共通点は禅定と世間善にあるが、思想観念と境界が異なる。仏法は世間の虚妄不実を説き、空を説く。外道法は有を説き、有を基盤として禅定と善法を行うため、空に至ることができず、五蘊を解脱させることができない。

一部の世間法に本源類の用語が存在するが、これらは浅義の部分に属し、世俗的な性質の本源と起源である。その源流は依然として有であり空でなく、万法の実質や根本的な生死の源流に及ばない。世間法は真に覚った法ではなく、そうでなければ仏法と呼ばれるはずである。

——生如法師の開示
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