如是我く聞けり。一時、仏は舎衛国の祇樹給孤独園に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げたまわく、「もし諸の沙門・婆羅門が六入処においていさぎよく知らずして、触を超度せんと欲するは、是の処あることなし。触の集、触の滅、触滅の道跡を超度するは、是の処あることなし。かくの如く受・愛・取・有・生老死を超度するは、是の処あることなし。老死の集、老死の滅、老死滅の道跡を超度するは、是の処あることなし。
もし沙門・婆羅門が六入処を如実知し、六入処の集、六入処の滅、六入処滅の道跡を如実知して、触を超度するは、斯に是の処あり。かくの如く受・愛・取・有・生老死を超度するは、斯に是の処あり。乃至老死滅の道跡を超度するは、斯に是の処あり」。仏はこの経を説きたまい終わりぬ。諸比丘は仏の説きたまう所を聞き、歓喜して奉行せり。
釈:世尊は諸比丘に告げたまわく、もし沙門・婆羅門が六入処を如実知せずして触を超度せんと欲するは不可能なり。触の集と触の滅、触滅の道跡を超度するは不可能なり。同様に、受・愛・取・有・生老死の集と滅、及び滅の道跡を超度せんとするも不可能なり。もし沙門・婆羅門が六入処を如実知し、六入処の集・滅・滅道跡を如実知して初めて触を超度する可能性あり。触の集・滅・滅道跡を超度する可能性あり。同様に触・触集・触滅・触滅道跡を如実知した後に、受・愛・取・有・生老死を超度する可能性あり。乃至それらの集・滅・滅道跡を超度する可能性あるなり。
十二因縁法の修習において、前の因縁を如実知証せざれば、後の因縁及び以降すべての因縁を超度し得ず。前の因縁は後の因縁の因縁たる故、前を通ぜざれば自然に後及び以降すべての因縁を通ずること能わず。故に修行は次第の法を逐い観行すべく、忍耐を以て急がず等を躐せざるを要す。然らずんば何れの法も証得し、如実知すること能わざるなり。
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