衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年11月19日    木曜日     第2 回の開示 合計2806回の開示

雑阿含経(三四七)その三

(三)原文:その時、須深は多くの比丘たちが去った後、このように思惟した。「これらの尊者たちの説くところは異なり、前後矛盾している。正受を得ていないと言いながら、自ら作証したと記説している」と。このように思惟した後、仏のもとに赴き、頭を地に付けて礼拝し、一歩退いて一方に立ち、仏に申し上げた。「世尊、あの多くの比丘たちは私の面前で『我が生は尽き、梵行は立ち、為すべきことはなし、自ら後に生を受けざることを知る』と記説しました。

私は直ちに彼ら尊者に問いました。『欲と悪しき不善の法を離れ、身をもって証し、諸漏を起こさず、心善く解脱されたのですか』と。彼らは答えました。『須深よ、そうではない』と。私は問い返しました。『説くところが異なり前後矛盾し、正受に入らないと言いながら、自ら作証したと記説するのはなぜか』と。彼らは答えました。『慧解脱を得たからだ』と。このように語り終えると、各々座より立ち去りました。今世尊にお尋ねします。なぜ彼らの説くところは異なり前後矛盾し、正受を得ていないのに自ら作証したと説くのですか」。

解説:この時須深は比丘たちが去ったのを見て、このように思惟した。これらの尊者たちの説く解脱の内容は一致せず、前後矛盾している。禅定の正受を得ていないと言いながら、自ら解脱を証し後世がないと記説している。思惟を終えると仏の居所へ赴き、頭を下げて仏足を礼拝し、傍らに退いて申し上げた:世尊、先ほど多くの比丘が私の面前で「我が生は尽き、梵行は立ち、為すべきことはなし、自ら後に生を受けざることを知る」と申しました。

私は彼ら尊者に問いました。「貪欲や不善の法を離れ、身をもって証し、諸煩悩の漏れを生じさせず、心善く解脱されたのですか」と。彼らは「そうではない」と答えました。私は続けて問いました。「あなた方の説く解脱の状況と異なり、前後が一致せず、四禅八定の正受を得ずに自ら作証したと記説するのはなぜですか」と。彼らは「慧解脱の阿羅漢は四禅八定を必要としない」と答え、去って行きました。今世尊にお尋ねします。なぜ彼らの説く実際の解脱の現象と異なり、前後矛盾しているのに自ら作証できると言うのですか。

原文:仏は須深に告げた。「彼らはまず法住を知り、後に涅槃を知った。それらの善男子たちは独り静かな処で専ら精進して思惟し、放逸せずに住し、我見を離れ、諸漏を起こさず、心善く解脱したのだ」。須深は仏に申し上げた。「私は今なお、まず法住を知り後に涅槃を知るという、あの善男子たちが独り静かな処で専ら精進して思惟し、放逸せずに住し、我見を離れ諸漏を起こさず心善く解脱することを理解できません」。仏は須深に告げた。「汝が知るか知らぬかを問わない。まず自ら法住を知り、後に涅槃を知るのだ。それらの善男子たちは独り静かな処で専ら精進して思惟し、放逸せずに住し、我見を離れ心善く解脱する」。須深は仏に申し上げた。「どうか世尊、私のために法を説き、法住智を知り、法住智を見ることを得させてください」。

解説:仏は須深に、彼らはまず法住を知り、後に涅槃を証知したと告げた。諸善男子たちは皆、独り静かな場所で専ら精進して思惟し、放逸しない修行に住し、我見を離れたため、一切の煩悩の漏れを起こさず心善く解脱したのである。須深は仏に「私は今なお、まず法住を知り後に涅槃を知るという、あの善男子たちが独り静かな処で専ら精進して思惟し、放逸せずに住し、我見を離れ諸漏を起こさず心善く解脱することを理解できません」と申し上げた。仏は須深に「汝が知るか知らぬかを問わない。まず自ら法住を知り、後に涅槃を知るのだ」と重ねて告げた。須深は仏に「どうか世尊、私のために法を説き、法住智を知り、法住智を見ることを得させてください」と懇願した。

「まず法住を知る」とは十二因縁の法を知り、十二因縁の法に住して心を他に移さないことを指す。「後に涅槃を知る」とは解脱の方法を知り、涅槃を証得することを意味する。心善く解脱する者には必ず初禅定が必要であり、我見を断じて初果を証得した後、この定において貪瞋痴の煩悩結縛を断じ、三果人や四果阿羅漢となり、心を解脱させ有余涅槃と無余涅槃を証得するのである。

——生如法師の開示
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