仏道修行において、知らず知らずのうちに誤った考えに陥ることがあります。ある人々は「全てが空(くう)で幻のようなものなら、何もかもどうでも良い」という誤解に囚われます。受(じゅ)が空であるなら、受けるがままにしておけばいい。苦が空であるなら、苦しむがままにしておけばいい。煩悩が空であるなら、煩悩に悩むがままにしておけばいい。生死が空であるなら、生死に流されるがままにしておけばいい。輪廻が空であるなら、輪廻を繰り返すがままにしておけばいい、と。
また別の人々は「福徳を積むことが空であるなら、どうして福を修め、布施をする必要があろうか」という別の誤りに陥ります。禅定が空であるなら、どうして禅定を修める必要があろうか。菩薩道が空であるなら、どうして六波羅蜜を修める必要があろうか。成仏が空であるなら、どうして成仏を求める必要があろうか。全てが空であるなら、修めようと修めまいと同じことではないか、と。
如来蔵の教えを学んだある人々はさらに別の誤解に陥ります。「如来蔵は元来戒律を保ったことがないなら、どうして私が戒律を保つ必要があろうか。如来蔵は元来禅定を修めたことがないなら、どうして禅定を修める必要があろうか。如来蔵は元来福徳を修めたことがないなら、どうして福を修める必要があろうか。如来蔵は元来輪廻することがないなら、どうして輪廻を断つ必要があろうか。如来蔵は本来仏であるなら、どうして成仏を求める必要があろうか」と。
しかしこれらの人々は決してこうは問いません。「如来蔵は元来貪欲を持たないなら、どうして私が貪欲を持つ必要があろうか。如来蔵は元来煩悩を持たないなら、どうして私が煩悩に悩む必要があろうか。如来蔵は元来殺生・盗み・邪淫・妄語・飲酒をしないなら、どうして私がそれらを行う必要があろうか。如来蔵に無明が存在しないなら、どうして私に無明があるのか」と。空であると考えるなら、一切の法を空じるべきです。給料が半月分減らされても、とやかく言う必要はありません。なぜ選択的に空にするのか。責任を空にする一方で、利益や貪欲は空にしない。これはいったい何の「空」でしょうか。
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