衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年11月14日    土曜日     第2 回の開示 合計2786回の開示

どのように行が縁じて識を生じ、識が縁じて名色を生ずるかを正しく理解するか

まず、各仏典の翻訳において誤解が生じる可能性があります。経典翻訳者の修証レベルはまちまちで、証量もそれぞれ異なり、さらに証量を全く持たない翻訳者もいるため、翻訳された仏典は法義の面で差異が生じます。一人が翻訳すれば一つの水準が、複数人で翻訳すれば複数の水準が生まれるのです。かつて小乗の修行者たちは意根を理解しておらず、経典翻訳において意根に関する法義に遭遇すると、理解に偏りが生じ、根本的に理解できない者もいました。仮にその者が禅定に優れていたとしても、修証においてはこの不足を補うことができても、経典の解説や翻訳においてはこの部分の不足を補う術がありません。その結果、後世の禅定を修めない者たちに様々な誤解が生じ、実証が不可能となったため、やむなく推論や分析、憶測を用いることになったのです。

仏教徒が法義を貫通させておらず、意根を理解・実証できない場合、経典に対する認識に誤解と齟齬が生じます。例えば十二因縁の「無明縁行」「行縁識」の箇所において、どう考えても「行」と「識」が何を指すのか理解できず、両者の関係を整理できず、運行の前後順序を逆転させてしまいます。もし「行縁識」の「識」を第七識あるいは第八識と解釈するならば、法義は甚だしく誤りとなります。いかなる「行」が第七識を生じ得るでしょうか。第八識の「行」のみが第七識を生じ得ますが、第八識には無明が存在しないため、「無明縁行」の箇所が説明不可能となります。いかなる「行」が第八識を生じ得るかと言えば、世間・出世間のいかなる「行」も第八識を生じ得ず、従って「行縁識」「識縁名色」の「識」は第七識や第八識ではなく、六識でしかあり得ません。

では、いかなる「行」が六識を生じ得るのでしょうか。身口意の行が決して六識を生じ得ないことは明らかで、これはまさに逆転した理解です。六識が存在しなければ身口意の行も存在せず、六識の身口意行が六識自体を生じ得ないからです。自己が自己を出生することはできず、他の識や法によってのみ出生されます。六識は第八識によってのみ出生され、第七識の行は助縁となります。第七識の行為が起因となり、第八識が随順して協力し六識を出生させ、身口意行を造作し、業種を蓄積して、後世における五陰名色出生の因と成るのです。このように環状に連鎖して運行することで、十二因縁の生死輪廻の苦が完結するのです。

——生如法師の開示
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