(一)原文:如是我聞。一時、仏は拘留搜調牛聚落に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げたまわく、「我れ汝等のために法を説かん。初めも中も終わりも善く、義も善く味わいも善く、純一清浄にして梵行清白なるものを。これを大空法経と名づく。諦聴せよ。善く思惟せよ。今汝等のために説かん。何をか大空法経というや。これすなわち此有るが故に彼有り、此起こるが故に彼起こると謂う。すなわち無明を縁として行あり、行を縁として識あり、乃至純大苦聚と集まる」
釈:世尊は比丘たちに告げられた、「私はあなた方のために法を説きます。私の説く法は初めも善く、中も善く、終わりも善く、その義も善く、法味も善く、純粋清浄で梵行の清らかさを備えたものです。これを大空法経といいます。よく聞き、よく考えなさい。今まさに説きます。大空法経とは何か。これは此がある故に彼があり、此が生じる故に彼もまた生じるということです。すなわち無明を縁として行が生じ、行を縁として識が生じ、識を縁として名色が生じ、名色を縁として六入が生じ、六入を縁として触が生じ、触を縁として受が生じ、受を縁として愛が生じ、愛を縁として取が生じ、取を縁として有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老死憂悲苦悩が生じ、ついに純大苦聚が集起するのです」
原文:生老死を縁ずる者に、もし問うて言わん、『彼れ誰が老死か。老死は誰に属するや』と。彼は即ち答えて言わん、『我れ即ち老死なり。今の老死は我に属す。老死は我なり』と。命は即ち身なりと言うか、或いは命は身と異なると言うか。これは一義にして種々に説くところなり。もし『命は即ち身なり』と見るならば、彼の梵行を行う者には存在せず。もしまた『命は身と異なり』と見るならば、梵行を行う者には存在せず。この二辺に心従わず、ただ中道に向かい、賢聖出世の如実不颠倒なる正見をなす。これ生老死を縁ずることを謂う。かくの如く生は有を縁じ、有は取を縁じ、取は愛を縁じ、愛は受を縁じ、受は触を縁じ、触は六入処を縁じ、六入処は名色を縁じ、名色は識を縁じ、識は行を縁じ、行は無明を縁ずるが故に行あり
釈:生を縁として老死があるという問題について、もし「誰が老死するのか、老死は誰のものか」と問われたら、「私が老死し、今の老死は私のものであり、老死が私そのものだ」と答えなさい。「命は身体そのもの」と言う者も、「命と身体は別物」と言う者も、根本的には同じ意味を様々に表現しているに過ぎません。「命は身体そのもの」と見る考え方は、梵行を完成した者には存在しません。「命と身体は別物」と見る考え方も、梵行を完成した者には存在しません。
比丘たちよ、命と身体に関する「有る」「無い」という両極端に心を動かすことなく、ただ中道涅槃に向かいなさい。聖者が世に出た後、命について真実を歪めず正しく見るとは、十二因縁を説くことであり、生を縁として老死があり、有を縁として生があり、取を縁として有があり、愛を縁として取があり、受を縁として愛があり、触を縁として受があり、六入を縁として触があり、名色を縁として六入があり、識を縁として名色があり、行を縁として識があり、無明を縁として行があるのです。
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