衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年11月11日    水曜日     第2 回の開示 合計2777回の開示

雑阿含経(二九六)の三

(三)原文:多聞の聖弟子はこの因縁法・縁生法について正しく知り、善く見る。過去世を求めず「我が過去世は有るか無いか、我が過去世は如何なる類か、我が過去世は如何なるものか」と言わず。未来世を求めず「我が未来世は有るか無いか、如何なる類か、如何なるものか」と言わず。内に猶豫することなく「これは何等か、如何にしてこれが先にあるか、誰が終に如何なるものとなるか、この衆生は何処から来たるか、ここで滅びて何処へ往くか」と思わない。

釈:多聞の聖弟子は因縁法・縁生法について正しい知見を具え、前世に執着せず「我が過去世は有るようで無いようだ、我が過去世は如何なる衆生の類か、我が過去世は何をしていたのか」と言わず、また来世を貪り求めず「我が未来世は有るか無いか、如何なる衆生の類か、如何なる生活を送るか」と言わない。多聞の聖弟子は内心にこの類の疑問を抱かず「これは何等の衆生か、何故先にこのような身分があったのか、最終的に如何なる衆生となるのか、この衆生は何処から来たのか、この世を去った後どこへ往くのか」と思わない。

寂静解脱を求める修行者は、前世の身分を考えず、来世の如何をも求めず、過去世に関する想念を全て断ち、未来世への妄念も全て無くし、ただ現世において苦を滅して解脱を得ようと求める。もし未来世を如何にすべきかと考えるなら、それは解脱を求める者ではない。しかし菩薩道を行ずる者は、未来世において如何に修行し、如何に衆生を救い、如何に仏道を成就するかを考えねばならない。故に解脱を求める阿羅漢の解脱には五蘊色が無く、大乗菩薩の心解脱には必ず五蘊色が存在する。

原文:もし沙門婆羅門が世俗的な見解に縛られて、我見に縛られ、衆生見に縛られ、寿命見に縛られ、忌諱吉凶の見解に縛られるならば、その時全て断じ尽くして知り、根本を断つ。多羅樹の頭を截ち切るが如く、未来世において生じざる法を成就する。これを多聞の聖弟子が因縁法・縁生法を如実に正しく知り、善く見、善く覚り、善く修め、善く入るという。仏はこの経を説き終えられると、諸比丘は仏の説かれたことを聞き、歓喜して奉行した。

釈:沙門婆羅門が従来より己の起こした世間の凡夫俗人の知見、即ち我見・衆生見・寿者見・世間の種種理に適わぬ忌諱や吉凶の知見に縛られていたならば、因縁法を証得する時に全て断除し、我見我執の根本を断つ。恰も多羅樹の頭を截ち切る如く、これらの理に背く知見を未来世に再び生起させない。かくして多聞の聖弟子は因縁法と縁生法を如実に正しく了知し、その真実の理を善く見、善く覚り、善く道を修め、善く道に入ることができる。

——生如法師の開示
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