(二)原文:尔时。世尊告诸比丘。此身非汝所有。亦非余人所有。谓六触入处。本修行愿。受得此身。云何为六。眼触入处。耳鼻舌身意触入处。彼多闻圣弟子于诸缘起。善正思惟观察。有此六识身。六触身六受身。六想身六思身。所谓此有故。有当来生老病死忧悲恼苦。如是如是纯大苦聚集。是名有因有缘世间集。
解釈:世尊は比丘たちに告げて言われました:「今あなたたちの色身はあなたたちのものではなく、他の人のものでもありません。六触入処があるがゆえに、本来修行した願行によって、この身を受けて得たのです。六とは何でしょうか。眼触入処、耳触入処、鼻触入処、舌触入処、身触入処、意触入処です。多聞の聖弟子は一切の縁起法について、善く正しく如理に思惟観察すべきです。六識身があるがゆえに、六触身、六受身、六想身、六思身があるのです。いわゆる此有故彼有とは、六識身があれば未来の生老病死憂悲苦悩があるということです。このようにして純大の苦が集まってくるのです。これを有因有縁で世間が集まると言います。」
仏は衆生に六識身、六触身、六受身、六想身、六思身があると説かれました。六識身とは眼識、耳識、鼻識、身識、意識です。六受身とは眼触生受、耳触生受、鼻触生受、舌触生受、身触生受、意触生受です。六触身とは眼触、耳触、鼻触、舌触、身触、意触です。六想身とは眼触生想、耳触生想、鼻触生想、舌触生想、身触生想、意触生想です。六思身とは眼触生思、耳触生思、鼻触生思、舌触生思、身触生思、意触生思です。思とは抉択決定と行為造作のことで、たとえば眼根が色塵に触れて思を生じ、眼識が抉択を生起し、さらに何らかの行為造作があり、引き続き運行していく、これは行陰に属します。
眼が色を見るとき、眼識には思と行があり、抉択と行為造作があります。耳が声を聞くとき、耳識には抉択と行為造作があり、分別があるということは行為造作であり、これを六思身と呼び、六行とも呼び、行陰とも呼びます。だから思は行を含みます。思と想は異なります。想とは了別執取の行為であり、あるいは第六識・第七識の妄想、分別、打算などの思想活動です。この思は主に抉択と、抉択の後の行為造作にあります。六識の行為造作は身口意行ですが、抉択の後は、静止寂滅で身口意行の造作がないこともあります。
此有故彼有とは、十二因縁を説いているのです。前の鎖が因であり、後の鎖が果です。第二の鎖から、それぞれの鎖は前の鎖の果であると同時に次の鎖の因でもあります。最後の大苦聚は果だけであり因ではありません。最初の無明は因だけであり果ではなく、それより前の因がない、すなわち無始以来存在するものです。十二因縁とは縁起法であり、世間の一切の法はすべて縁起法です。もし無因無縁であれば、一切の法は現れません。これを有因有縁世間集と言い、世間は因縁によって集まったものなのです。有因有縁世間滅もあり、滅もまた有因有縁であり、理由もなく滅するのではありません。
しかし、一つの法だけは因縁の中になく、因縁によって生じたものではありません。神様は万法の因であり、万法は神様があるがゆえに現れるのです。神様はいかなる縁も用いずに存在しており、神様を生じさせる法はなく、神様は法爾如是の存在なのです。この法の存在にはなぜもなく、原因がありません。それ以外の一切の法の存在には必ずなぜかがあり、必ず因縁があります。第八識があるがゆえに、世間の一切の仮相が建立されているのです。宇宙、虚空、大千世界、衆生の五陰身、神様は万法の因であり、また万法の根、万法の縁でもありますが、神様自身には根も縁もありません。
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