衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年11月04日    水曜日     第1 回の開示 合計2762回の開示

雑阿含経(二九三)之三

(三)阿羅漢たちは修行の最後に、一切の執着を離れ、愛を尽くし、無欲となり、寂滅して涅槃に入る。心は一切の法に執着せず、一切の法に固執せず、さらなる法を望むこともない。これが取滅である。取滅が達成されれば貪愛も消滅し、貪愛が尽きれば無欲となる。この三界の世に対するいかなる想念や追求も消え去る。もしもなお想念や意志が残るならば、意根の執着は断たれず、来世が生じ、愛は尽きず、欲は離れず、寂滅涅槃に至ることはできない。故に無欲の後に寂滅が訪れ、寂滅こそが涅槃である。この時五蘊は全て滅尽し、生住異滅なき涅槃の心である第八識のみが残る。これが涅槃の境地である。

四聖諦の法と十二因縁の法は小乗の有為法であり、小乗の有為法は無為法である阿頼耶識から離れることはできない。仏は説かれた:一切の法の生起は有為であり、住も有為、変異も有為、滅失も有為である。宇宙の大千世界には全て生・住・異・滅があり、これらは皆有為法である。無為とは生ぜず住せず、異ならず滅せざるものである。どのような法がこれに当たるか? 第八識のみがこのような性質を持つ。身口意の行いという有為法の中に無為法が含まれており、そうでなければ有為法も顕現し得ない。有為と無為は同時に運行し、有為が滅びた後に残る無為こそが寂滅涅槃である。

有為あるところに苦あり、一切の苦は結果である。結果あれば必ず因あり、身口意の行いがその因となる。因が造作されれば、果は未来世に現れる可能性があり、あるいは現世に現れることもある。縁が具足すれば果は現れ、縁が具足しなければ因として種子となり将来に結果をもたらす。修行とは因を植えることに他ならない。果がいつ現れるか? 縁が具足する時にこそ果を得るのである。悟りを開く縁とは何か? それは菩薩の六波羅蜜であり、六波羅蜜を円満すれば明心の果が現れる。速やかに果を得んとすれば、速やかに六波羅蜜の縁を具足せよ。もし六波羅蜜の修行を軽んずるならば、明心の縁は具足せず、いつの生まれで悟りを得るかは定まらない。

ある修行者は果報を命終の時に得ようとし、臨終に西方極楽世界へ往生することを願う。しかし命終時に極楽往生の縁が具足する保証はなく、いかなる者もその確約はできない。仏が保証を与えられなければ、誰の保証も無意味である。ただ現世に生きながらにして往生の縁を具足し、生存中に極楽世界を自らの三昧に現前させ、あるいは阿弥陀仏を三昧中に感得する場合に限り、この三昧力と仏の加持力によって、命終時の往生が保証されるのである。

——生如法師の開示
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