衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年11月02日    月曜日     第5 回の開示 合計2759回の開示

ただ子の眼正しきを貴び、子の行いを説かず

溈山が仰山に問う:「涅槃経四十巻、どれほどが仏説で、どれほどが魔説か?」仰山曰く:「総て魔説なり」。溈山曰く:「以後、子を奈何する者なし」。仰山曰く:「慧寂は即ち一期の事なり、行履は何処にあるや」。溈山曰く:「只だ子の眼正しきを貴び、子の行履を説かず」。

仰山禅師が師の問いに答えた言葉は奇妙である。涅槃経四十巻は全て魔の説であり、仏の説ではないと仰山は述べた。なぜ仏説ではないか。真仏は口を持たず説法せず、口で説法するものは真仏に随伴する存在であって、幻化の真仏ではなく仮の仏に過ぎないからである。師の溈山禅師はこれを聞いて大いに賞賛し「今後真に汝に対処できる者はいない。汝の智慧は群を抜いている」と述べた。仰山は「私は今、知見を具足したが、真の菩薩行履は如何に体現すべきか」と問うと、溈山は「只だ見地が純正であれば、菩薩が持つべき行履は建立できぬ道理がない」と答えた。

仰山は既に明心見性し、般若智慧を具足していた。しかし彼は速やかに菩薩の行持を具足し、自身の身口意の行いを完成させ、菩薩の全ての規範に合致し、真の名実相伴う菩薩となることを志した。これに対し溈山は、真に明心見性すれば、行持は漸次に転換し、従前の身口意の行いは次第に清浊となり、煩悩断除は自然の成り行きであり、慈悲喜捨の菩薩心行は徐々に具足されると考えた。溈山の見解は極めて正当であるが、「眼正」とは何を指すか。意根の眼が邪である限り、菩薩の行履は正しくなり得ない。唯だ意根の眼が正しければ、身口意は自然に正道を行い、無明煩悩を断じ切れぬ道理がなく、菩薩の慈悲喜捨の心行を具足できぬ心配はない。事実が証明するように、仰山禅師は後に禅宗の三関を突破し初地に入り、夢中で弥勒内院に至り弥勒菩薩の前で説法を行った。

古人の修行は真修実証であり、明心見性は真実の悟りで一点の曇りもなく、悟り後は智慧が湧き出で、行持も益々清浊となり菩薩の規範に適い、衆生の依止処となった。しかし今は様相が異なり、偽菩薩が飛び交い、身口意が人々の唾棄憎悪の的となり、世間の凡人よりも劣り、真の菩薩とは雲泥の差がある。故に偽りの明心を自称する偽菩薩が行履を論ずる資格はない。

——生如法師の開示
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